neutron Gallery - 任田 進一 展 - 『 SILENT DRIFT 』
2011/1/25 Tue - 2/13 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)


モノクロームの深遠な世界に、静かに繰り広げられる煙の舞い。それはまるでこの世に生命が誕生する瞬間のようにも、また全てが消滅する瞬間にも見える。
写真と言うメディアを信じて今この時代に見せられるドラマは、驚く程に鋭敏な感覚を突きつける。
ニュートロン初登場にして期待の映像詩人が、表題作の通り静謐な土煙とともに現れる!


 
「Silent drift [float-7592]」 (ed3, ap1)
2010年 / 800×1,200mm / light jet print


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 ファインダーを覗く者にしか、見えない光景がある。それは部屋の窓からの絵画の風景とも、普段何気なく過ごしている中で「見える」事象とも違う、限りない緊張感と狭い視野によって生まれる現実のパラレルワールドであり、それを目にすることはカメラを構える人間にしか許されない。写真は事実の記録であるとの認識は、半分は当たっているだろうが半分はそうとは言えない要素を孕むのは、そこに映る出来事はこのような限定的な視覚の基に成立する現実のトリミングであるため、そこには写真家ないしカメラマンの物の見方や癖が多分に入る余地があるからだと言えよう。

 だからこそ写真を撮る者は、己の世界への対峙の仕方をはっきりと認識しておく必要がある。それが揺らいでいては、偶然の産物としての面白いハプニングが映ることはあっても、およそ時代の中で強烈なメッセージ(同時代の物の見方を変化させるもの)を発することは出来ないであろう。そう、絵画や彫刻、ビデオアートがそうであるように、写真もまた時代における革新性を持つものでなければ、真の美術表現と言う事は出来ないと考える。シャッターを押せば映る便利な道具だからこそ、カメラを持つ者の責任や覚悟は重大でなければならない。それを持たないのなら、映った景色や愛しい物事を個人的に愛するに留めれば良い。

 任田進一は、目の前の出来事がカメラを持たなければ何気なく通り過ぎる光景であることを自覚しながら、その上でカメラを構えることを決意し、この世界の中で静かに訴えかける現象を映そうと考えている。どこともない野原の草むらの群生にレンズを向ける時、その被写体が何であるかを覚えるよりも、ファインダーを覗いた時にこそ感じる生々しい息吹や気配にこそ、写真家を興奮させる何かが存在することを知っている。それがどんなに圧倒的な巨大スケールの風景であっても、テーブルの上の皿の中の出来事であったとしても、ファインダーの中では万物が等距離に存在し、そこに向けられる視線は一点のみに集中される。だからこそ写真家は静かなる感動の中に世界のもう一つの事実を知った気分を味わい、それを記録することが使命であるかのような切迫感にすら駆られるのである。

 映すものは自然に存在する、ありのままの現象とは限らない。任田が試すように、箱庭のような限られた器の中に自らが意思を持って事物を配置し、あるいは起こすことによって、そこには確かに風景が生まれる。それを「現実」と呼ぶか「空想」とするか、はたまた実験として「仮想現実」と名付けるかは自由であるが、いずれにしろ存在している事であるのは間違いない。むしろ検証すべきことは、手つかずの自然現象(この場合の自然は都会の反意語としてのものではなく、あくまで作為の反対としてものである)と違い、写真家が作り出す箱庭的世界には必然的に彼の思惑や哲学が限りなく忠実に反映され、言わば都合良く発生させられた出来事であるという点であろう。これについて、否定的な見解を持つことは容易い。例えば「写真は事実を映すものであるべきだ」「風景を生み出すのは写真家の仕事ではない」などなど・・・。しかし、それならば画家の仕事はどうなのだろう。森を見て、イーゼルの上のキャンバスにありのままの風景を描かなかったとしたら、それは罪なのだろうか。映像におけるCGは、ニュース映像で流れなければ多くの人に素直な驚きを与えるではないか。写真という古風なメディアだからといって、今この時代に新しい実験を行ってはいけないなど、誰が言うことが出来よう。少なくとも任田進一が見せようとする光景は、現像された紙の上ではありのままの自然現象であり、それを呼び起こす手段として入念な作為が準備されるのだ。だが一度ファインダーの中を覗けばもう、彼自身が想像していたイメージとも違う、「そこにしか存在しない」光景が広がっているのである。だからこそ彼は素直に目の前の光景と向き合い、一瞬の事象を映すことに必死になるのであろう。それこそが事実の発見であり、否定的な見解を汲みしない力ともなる。

 作為であれ不作為であれ、存在するものには真理が宿ると考えることは許されるはずだ。そして写真として目にする私達にとって、もはやその光景は疑い様のない事実の記録である。いや、そもそも疑うよりも注視し、没入した方が楽しいに違いない。「SILENT DRIFT」と題された静かに立ち上る煙は、モノクロームの中に生命の煌めきと瞬間の永続性を秘め、私達の目を奪わずにはいられない。