neutron Gallery - 伊吹 拓 展 - 『あるままにひかる』
2011/1/3 Mon - 23 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 伊吹 拓 (平面)

2011年の年明けを飾るのは、人として生きる中での出会 いや縁を大切にしながら絵画世界を発展させてきた、油画の伊吹拓。
大画面のキャンバス作品には人と人の繋がりや、混濁した広が りを爽快なイメージのスケールで提示。
一方、紙を支持体に描かれるのはシンプルで奥深い、存在の ポートレート。
年々円熟味を増して来た作家による作品は、一期一会の大切さ を感じさせてくれることでしょう。


 
「Tibet」
2010年 / 41.0×31.8cm / oil on cotton


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 作家という一人の人間において、制作そのものを根底から揺るがす大きな出来事があるとすれば、おそらく結婚や出産という「家族」の出現、または死去や離別によるその喪失に他ならないだろう。作家であるために、自分という人間が自立して以後、全くの独創性だけで制作が出来るものかと問われれば、ほとんどの場合その答えは「NO」である。家族や友人・知人、そして良き理解者や協力者が居なければ、作家が作家として生きることはもちろん、その大前提として一人の人間生活を営むことすら、容易ではないはずだ。だからこそ、社会の中で作家として制作・発表を続けていると言う事は、即ちその人が周囲に恵まれていることを示しており、例え一向に名が売れなかったとしても、彼または彼女が自分の信じる道を歩んで行ける(歩ませてくれている)限り、本望なのでもあろう。無論、作品や名が売れることを望まない作家など居ないのだが…。

 伊吹拓にとって一昨年は大きな出来事が待ち構えていた。同じ作家として連れ添った夫人との間に待望の第一子が誕生し、以後その存在、姿は彼の生活の中で大きなウェイトを占めることになる。普通の夫婦の内であっても大きな出来事であるのだから、作家としての夫婦には殊更に影響を及ぼしたとしても不思議ではない。だが、その影響と言うのは、だからと言って画面にすぐに現れる様な一過性で表面的なものではなく、彼に作家として、父親として生きる意味を改めて考えさせる契機としてのそれである。余計なおせっかいと知ってもなお、彼の活き活きとした顔を見れば幸せな家庭を連想し、微笑ましくもなるというものだ。・・・だがしかし、芸術家は幸福よりも不幸によって創作意欲をかき立てられるとも昔から言うではないか。果たして彼の家庭の幸福は、彼の筆圧を鈍らせるのでは・・・という杞憂は杞憂のままに終わりそうだ。なぜなら、2011年の年明けを飾る彼の作品からは、今までと同じ、あるいはそれ以上に自然体で「あるまま」の姿が描かれているのだから。

 彼はいわゆる抽象画の作家である。特定のモチーフを見ながら描いている訳ではなく、油彩で支持体を紙とキャンバスで使い分け、大きな画面から小さなドローイングまで、どれを見ても彼と分かる画面の印象を保持している。その特徴は二つの相反するものを共存あるいは分離することで理解しやすくなるであろう。例えば水と油、光と影、緊張と緩和、生と動、あるいは生と死など。時にそれらは同じ画面に共存し、時に反目し合い、また時にはどちらか一方の要素だけで見せられもする。安易な色彩のコントラストや筆致の強弱に頼ることなく、同じ様で二つと同じではない彼の絵画に描かれているのは、矛盾と共感の塊としての「存在」ではなかろうか。・・・例えば私達人間そのもの。人の印象を絵に描くと言えば普通は肖像画のようなポートレートを連想するが、それが仮に人物の気配やオーラを抽象的に捉え・描き表したイメージであったとしても不思議は無い。あるいは人の存在を単一の事象としてではなく、描き手としての作家との関係性(距離や密度)や心の共鳴の具合によって表すことも出来るのかもしれない。作家の存在は作品の発端であるが、そこから一人一人、周囲の人間に結びつきが生じ、作品を通じたネットワークが構築され、網は次第に大きく・太くなっていく。だがしかしそれは突然、蜘蛛の糸の様に切れてみたりもする。インターネットを支えるWorld Wide Web(www.と略され、「web」は蜘蛛の巣を意味する)とは違い、人間同士の点と線は常に変化を繰り返す。か細く頼りない様でいて、実はいざと言う時に強固な力を発揮することもある。その目に見えない点と線は、伊吹拓の絵画面に縦横無尽に展開され、人間という存在とその関係性における事象が、おおいなる魅力と矛盾が渦巻く混濁のオーラとして広がっている。それは人間の存在を客観的な視点と私観的なそれの両眼で眺める、作家自身の見ている景色に他ならない。

 そんな彼の目の前に加わった、素晴らしく無垢で純粋な一点の存在が、これから先の作家の描く画面にどのような変化と成長をもたらすのかも、楽しみでならない。