Gallery - 矢部真知己 展 - 『〜海中空間〜 巨大アクアリウム』
2010/8/17 Tue - 29 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 矢部 真知己 (平面)

京都市立芸術大学油画専攻卒業、水中生物や陸上の動物達をグロテスクなまでに活写し、生命の力強さと機能美を描き出す異色の作家がニュートロン初登場。
穏やかな水族館のイメージを覆し、獰猛でエネルギッシュな生き物の姿が大画面に展開され、まさにギャラリー空間は矢部の絵画によって「アクアリウム」(水族館)と化す!!


 
「海面浮遊」(部分イメージ)
2010年 / 180×260cm / 油彩、キャンバス


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 この禍々しさはただものではない。矢部真知己という、実力の割にはまだほとんど知られていない作家をここで紹介するにあたり、まず言うべきはその異様さであろう。主に水中の生物と、陸上の動物を油画でダイナミックに表現し、それぞれの住む世界を背景に群像を描くパノラマティックな大作(中には横幅10m に迫るものもある)と、一方で一つ一つの種(=個)に焦点を当てた小作とに区別される。そのどちらにも共通しているのが生き物達の描き方、すなわち図鑑や動物写真集では見る事の出来ない獰猛で滑稽、あるいは不気味な佇まいなど、どれも従来の「可愛い」あるいは「かっこいい」動物の描かれ方とは完全に一線を画し、その迫力は水族館や動物園の牧歌的雰囲気など吹き飛ばす勢いである。まさにこれぞ肉食系!!生き物のあるべき姿だ! ! ・・・などと叫ぶつもりは毛頭ない。これら登場するものたちを「魚類」や「動物」として見るだけでは、矢部の描く絵画の本当の面白さの半分も得られないことになろう。矢部に限らず、およそ生き物を描く画家のほとんどはそれら対象を擬人化することにより表現を成功させていることを考えれば、ここに描かれる異形のものたちも、当然のことながら私達人間と照らし合わせて見る事が可能なはずだ。

 ニュートロン京都ギャラリーの存在の仕方はよく水槽に例えられるが、矢部がここで見せるであろう景色は、ある意味では最も効果的で適切なものとなろう。作家によれば今回の個展は3つの要素から成り、@パノラマ型巨大水中空間では、伸び伸びと泳ぎ回る、うみのいきもの達の様子を描く。A顕微鏡の世界では、不思議な形をした魚類を描き、小さな穴を覗きこむような感覚に陥るような画面構成にする。B泡が渦巻く海面の世界では、泡に紛れてひっそりと潜む生きものの様子を描く。(以上原文表記のまま)…とある。つまりこの空間がいよいよ水族館の水槽となるのだ。しかも描かれているのは、穏やかな予定調和の満ちた水族館の景色ではない。潮の流れと弱肉強食の原理が働く海洋のそれであり、海の生物の本来のありさまが見せられるのだから、そのスペクタクルや如何に!!・・・と触れ回るのも止めておこう。なぜなら、そのような興行的(見世物的)な視線は当然に浴びることを想定しながら、実は皮肉にも人間のエンターテイメントとは裏腹に、矢部の絵画に描かれているのは私達人間であるという上述の仮定を当てはめた場合、私達は実際の水族館や海洋を見る行為では絶対に得られない複雑な感情を持つ事になるであろうから。

 それはつまり、「ゲゲゲの鬼太郎」の登場人物(=妖怪達)から受ける印象にも通ずる。水木しげるの描く魅力的な魑魅魍魎は現実に存在する/しないよりも、人間の想像(創造)の力こそが生みの親となり、彼らの存在には「お化け」としての怨念よりも日本風土に根ざした民俗学的な信仰・伝承と結びついた上での物語が織り込まれ、この世に居ないのは分かっていても「居て欲しい」と思わせるほど、人間味を放っている。矢部の描く水中生物達のポートレートを見れば(それらは全て実在する種目だが)その名前や性質など知らずとも、トボケた表情やいかつい顔面から「この人に似ている」とか「きっとこんな性格に違いない」という推測くらいは可能である。それはきっと、描かれた世界を実際の海を眺める様にありのまま受け取るよりも、よほど楽しい見方に違いないだろう。

 しかし、擬人化や感情移入以前に、画家の客観的立ち位置にこそ注目して欲しい。波に呑み込まれんばかりの構図においても、小さなポートレートのシリーズにおいても、実は矢部の対象を見る目は極めて冷静であり、感情を込めてはいない。激しさや珍妙さは、感情や性格を伴ってこそ擬人化する対象となり得るが、実は矢部の描く全ての生き物にその余地を私は感じない。だからこそ描かれたものの迫力以上に私を戦慄させるのは、矢部がこの世界(=私達の世界)の魑魅魍魎や弱肉強食を極めて客観的に観察し、かつ本能的にそれらに魅力を感じ、自らの生物画に「表情」や愛玩性の高い形態などを敢えて描くことなく、つまりは人間の動物に対する利己的な視線を意図的に排除し、生き物としての機能的な美しさ(殺傷能力や環境適応性などに由来する姿)にこそ真の美的存在意義があると言わんとしていることにある。H・R・ギーガー作画・リドリー・スコット監督による映画『エイリアン』シリーズにおける「彼ら」が、シンプルに生存・繁殖を目的とした結果、見事なまでにエロチックで恐ろしい姿を獲得したように。