neutron Gallery - 小西 加奈子展 - 『 watery 』
2010/6/22 Tue - 7/4 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 小西 加奈子 (平面)

 ヒトの内なる感情や意識は目に見えないところで、反応し流れを汲む。
 結果、自らを投じたところは、常に自身を伴う変化が生じる。
 混濁する水の中で時に抗い、時に身を任せるのは、現代社会においてもがきながらも生きる若き女性像にも見える。
 昨年秋の東京初個展の作品と新作を交えて、ゆっくりと確実に前を向く新鋭。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 初個展となった昨年秋のneutron tokyoでの発表から半年。今個展は当時の構成作品の中から主要なものを選び、新作と併せて発表する形態を取る。前回「好奇心の未了」と題された作家の本格的なキャリアのスタートは、まさに絵に描かれている通り混濁の海へ恐る恐る足を踏み入れた格好だが、水の抵抗の中での歩みはゆっくりとしたものであれ、確かな手応えを期待してやまない。以下は昨年当時の私のコメントを引き続き引用する。

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 辺りは漆黒の闇が近づいているのか、あるいは夜明け前のほの明るさが感じられる時刻なのか。とにかく画面に描かれる水辺(おそらくは海辺の波打ち際なのだろう)は決して明るさが足りているとは言いがたい、不確かな暗さが漂っている。そしてその画面の中では、一人の少女が肌着を身に纏った状態で水に浸っており、細かな表情は読み取れない。ただ、彼女はおよそ死を覚悟して入水しようとする感じではなく、むしろ水の中に居るのが心地良さそうな風にも見て取れる。

 小西加奈子の描く画面の仄暗さを一見して、それが精神的な不安や意識の混濁を象徴していると解釈すると、これらの絵の本来の魅力の半分も感じることは出来ないであろう。確かに画面を覆う陰鬱な空気は拭いがたいが、それを一様なものとして捉えるのは短絡的である。すなわち、仄暗さの中に描かれているものは不安や意識の混濁だけではなく、少女の佇まいから感じる不思議な心地よさから察するべき要素も存在すると思われる。

 例えば水は、ここでは海なのか湖なのかを厳密に追求するよりも、そこが彼女にとって安らぎの対象でありながら、身体に厳しさをもって迫る脅威でもあるという二面性に注目したい。実際ここに描かれているのは場所を特定する必要のない状況設定における水であり、作者の分身である少女が身を任せることのできる水。つまりは母体の中の羊水のような設定とも言える。「少女」とは決して実年齢にとらわれることなく子供であり続ける象徴であり、観念や存在そのものが固定されたと言うべき大人の反意として使われるモチーフである。事実、小西の作品には生まれたばかりと思しき乳児の姿が描かれることもあり、この解釈を裏付ける。しかし一方では水は多層な流れを伴う液体であり、作家の言葉を借りれば、「水面近くを泳げば視界は明るいけれど、流れがあり留まらず、深い所を泳げば流れは少ないが、暗く視界が悪い」。つまりそれは私達が生きる現実社会にも似て、優しさも激しさも兼ね備えた複合的な環境であると言えよう。

 そこでまたもう一つ、水の役割が見えて来る。それは画面上に微かに漂う霞や湿気のような空気感にも言える事だが、描かれている「濁った水」は養分に満ちたエネルギーの源であると考えることも出来る。清潔で透き通った水のイメージばかりに目を奪われる昨今だが、濁っている水にはプランクトンや微生物が多く存在し、例えば希少な植物の繁茂が見られる池や沼の水は、限りなく濁っていることが多い。「淀む(よどむ)」と「濁る」の違いは大きく、前者は水の流れが中断したことによって生じる明らかな停滞状況を示すが、後者は様々な要素が交じり合って透明度を失ったことを言うのであり、一概にマイナスイメージを持つのは間違っている。某飲料メーカーがお茶の濁りを打ち出してヒット商品を生み出したのが良い例である。濁りには豊穣や濃厚を表す役割があることを、忘れてはならない。

 そのように考えれば、小西の絵に対する見方は随分と広がりを覚えることだろう。ただし最初に感じる不安や意識の混濁を否定するのではなく、むしろそれらが前提となりながらも、水に浸る少女というシンプルで奥の深いシチュエーションから感じられる事は多様である。傷つきながらも新しい発見や感動に飛び込んで行こうとする少女にとって、水の流れを伺うことは世の中に対峙する姿勢にも通じ、片や水の多様性は彼女の内面を描いていることにも等しいと言える。画面に濃密に広がる混濁には、日の光が当たることによって見えて来る原色の輝きがぎっしりと詰まっているのである。