neutron Gallery - 国吉 晶子展 『 かわく森 』-
2009/7/20 Mon - 8/2 Sun gallery neutron kyoto
国吉 晶子 KUNIYOSHI AKIKO

高知県で制作を続ける平面作家がニュートロン初登場。自然をモチーフにしながらも、その質感には現代のニュアンスを深く刻み、抽象の中に強いイメージを潜ませる。
迫力の大画面はとりどりの色彩に溢れ、生命のエネルギーを普遍的に残そうと試みる。
古典的な「森」のイメージとは一線を画した現代の「かわく森」とは・・・?





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neutron代表 石橋圭吾

 高知県の「県の花」はヤマモモであり、「県の木」はヤナセスギ。前者は「葉の艶が異なり、ホルトノキの方が葉が厚く光沢がある。 房総半島以西の温暖な地方に分布する。」後者は「普通は30mくらいになる常緑大高木で、大きなものは高さ65mくらいにもなる巨木もある。幹は直立し、暗褐色の幹は縦に割れる。」のだそうだ。蛇足だが「県の鳥」はヤイロチョウなるあまり飛ばない地味な鳥で、「県の魚」はカツオである(引用は全て「都道府県市町村シンボル」ホームページより)。南国と言えば否定は出来ないが、高知と言う場所を聞いて極彩色のパラダイスをイメージするのも少し違和感が残る。まして観光で訪れるイメージと住民の知る実態とでは大きな開きがあるに違いない。おそらく最もポピュラーなものは上記のうちカツオであり、県花や県木を思い浮かべるのはよほどの通(つう)だろう。

 しかしここに登場する国吉晶子の作品を見れば、ある程度その土地の空気や湿気を感じることが出来るのではないだろうか。今のように便利に世界各地を巡ったりインターネットの無かった時代には、(およそ旧世紀の)風景画や写真というメディアによって、そこに描写された土地を離れた別の場所から想像し、楽しんだものだろう。だからこそ、ここで国吉晶子が「風景画」という形式にとらわれていなくても、その土地に生まれ・生活し・制作するという事実が既に多くの土着の要素を孕んでいるのは間違い無く、結果として色彩や構図、はたまた絵のサイズからゆったりとした大きい筆の運びまで、作家がローカルな地点に定着しているからこそ見えてくる印象や情報が、これらの絵には多く潜んでいると見るべきであり、その(未知の)土地を想像することも鑑賞者の特権の一つと言えよう。

 作家自身がステートメントで書く様に、まさに南国気質と言うものが暖色系統を好ませ、あっけらかんと大らかな大画面の絵画を描く事をさせているのだとすれば、一方で「かわく森」という今回の発表作のタイトルは不思議な気がする。温暖湿潤な土地で森が乾くと言う事はあるのだろうか?・・・そうではなく、「かわく」とは現代の共通の質感たる「ドライ」を指す言葉であり、花や木であろうとも、国吉が子供の頃に感じた印象から、すっかり現代的な質感を伴うように変化してきたと言うのである。「ドライフラワー」とは異なる。あくまで、生きているのだがどこか生気に欠け、枯れるわけでもなく生えているそれら。思えば土建屋国家たる日本が、近代化をひたすらに追い求める過程で都会も田舎の別もなく、主要な道路から細分化した枝道までをを切り開きアスファルトで覆い、森林は伐採されるか保護の名目で管理され、いずれにしても自然界の本来の生命の循環装置はごく限られた土地にしか姿を留めなくなった。植物達は人間の欲するままに切られたかと思えばまた別の土地へ植えられ、そこで順応するものもあれば、やがて土着の循環サイクルに重大な変異をもたらしたりもする。南国・高知とて例外では無いのではなかろうか。色とりどりの花が咲き乱れ、野菜や果物が豊富に収穫され、海岸線には南国風の木々が立ち並び・・・といった光景のうち、人間の手が加わっていないものがどれほどあると言うのだろう。国吉の子供の頃の記憶ではまだ、本来の土地の姿があちこちに見えていたのか。今や南国は南国たらんとするがために、極彩色をあえて身に纏うのだろうか。開発による日本全国新興住宅地化が残したものは、多くの土地で同じ印象を持つ事が出来るという、日本のパラレル・ローカルスタンダードの現出であったのは事実であり、そこに寄生する花や木々はもはや、本来の土着エネルギーに満ちたそれとは別物であるとは考えられないだろうか。もはや人の足の踏み入れた事の無い秘境は地図上にほぼ存在せず、管理・運営される「自然」や「森林」・・・。

 しかし国吉晶子はそれらの中に、まだ脈々と受け継がれる生命本来の植強さも見出そうとしている。一方では確実に侵攻する「ドライ」をひしひしと感じつつ。画面の中で生と死が拮抗し、渦を巻き、不穏と安穏が混然としている。その絵は予定調和としての南国の自然を描いたのではなく、まさに今、眼前に存在する自然と人工のハイブリッドの肖像である。