neutron Gallery - ヤマガミ ユキヒロ展 『Synchroni City』-
2009/2/3 Tue - 15 Sun gallery neutron
ニュートロンアーティスト登録作家 ヤマガミ ユキヒロ YAMAGAMI YUKIHIRO

油画を出自としながら、写真、ビデオ投影など映像の要素を取り入れ、さらには空間までも取り込むヤマガミ。久しぶりの個展となる今回は、一貫したテーマである「都市の印象」を軸とし、日本各地の都市の町中をサンプリングして行き交う人やネオンの光、路上のものたちを三面の映像によって映し出す。
ドキュメンタリーとアートの境で現在の猥雑さをスタイリッシュに見せる、現代の映像詩となるのか!?




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ニュートロン代表 石橋圭吾

 都市の印象をテーマに制作をする作家は少なくない。一言で「都市」と言っても、そこに含まれる要素は多様である。あらゆる場所で目にし耳にする、「グローバルな情報化社会の…」というつまらない冠で始まるステートメント(能書き)は、本当に目まぐるしく動く現代の都市社会性を認知することを放棄している証拠でもある。20世紀最高の発明とされるインターネットは、その末端で細分化されたネットワークによりテロリズムとアンダーグラウンドな志向を助長し、都市の暗部をすくすくと育てている。あるいは経済・金融事情も今や世界各地でリンクしてし、都市の栄光と衰退はリアルタイムで刻々と推移する。しかし本来の都市像とは、個々に歴史を有して発展してきたものであり、そこには固有の時間が流れ、香りが漂い、方言が飛び交い、そこでしか味わえない喜びの果実が存在するはずである。それらを世界中どこでもクリック一つで入手できるように謳うコマーシャルは、安いイメージとしての都市像のバラ売りであり、人間の自発的な探索と感受性を妨げる。

 一方でマクドナルドやスターバックスは世界中に存在し、欧米発の服飾、映画、音楽、スポーツはどこに行っても歓迎され(それは例えイスラム圏であっても、本質的な需要としては高く存在する)、私達の目に映る都市の光景自体はおそらく、本来の独自性を失って、だいぶ似通ったものになっているのは間違いない。だからと言って「世界が近づいた」とするのは、やはり余りにも安易だろう。

 ここでヤマガミユキヒロが登場する。彼は京都精華大学の洋画専攻を卒業して以降、一貫して「都市の印象」をテーマにしてきた。技法としては本来の油画から発祥し、それに映像の投影を重ねて動く絵画として成立させたり、時には映像そのものであったり、写真であったり、空間と音声だけのインスタレーションであったりもする。しかし本質的に彼は画家であり、しかもかなり古典的な(西洋画)の影響を多分に感じさせる。写実的な油画での画面構成においては、一点透視技法を用いて安定感のある実在の都市の一場面を描き、そこに軽やかに飛び交う車のネオンや人の残像が、時間と事象の移ろいを明快に映し出す。それは実際の光景よりも美しく、流麗に表現されている様にも感じるが、ヤマガミユキヒロという作家は常に都市の雑踏(ストレス)をサンプル対象としながらも、彼の選別するデータあるいは編集された作品には不思議な「品(ひん)」が漂う。それは鑑賞者を安心させ、作家の意図とは時に裏腹に(?)リラックスさせることもあっただろう。

 ヤマガミユキヒロが実際にデータを採取する場所は大阪や京都が多い。しかし、いわゆるコテコテの関西テイストを発揮していることはあまりない。あくまでスマートに、クールに、緻密に構成された作品は、どのような技法でいかなる形態をとったとしても、現代のローカルな光景の一つでしかなく、同時にそれは世界各地で存在しうる普遍性を持った光景とも言える。つまりヤマガミユキヒロによって見せられる印象は、グローバリズムなどあまり意識していない、土着的でありふれたものたちの、その中でもさらに普遍性を有するサンプル達が醸し出す、絶対的な地域性と不思議な世界共有性の共存するものである。それはまさに、マクドナルドと“かに道楽”が隣同士であった場合に私達が感じる、かすかな違和感と大きな親しみに似ている。

 コンクリートの上を靴で安全に歩く私達が感じる世界は、圧倒的に視覚から認知するものに頼っている。本当のローカルとは、あるいは一個人とは何なのか。有り触れた光景の集積としてのヤマガミユキヒロの作品は、それを逆説的に、静かに訴えかけているのではないだろうか。