neutron Gallery - 大和 由佳展 『大和由佳展 泥で洗う - 食卓 -』-
2008/4/22 Tue - 5/11 Sun gallery neutron
ニュートロンアーティスト登録作家 大和 由佳 YAMATO YUKA

繊細かつ大胆なインスタレーションと、緻密なドローイング、小作品によって自己と他者との領域を測り、その繋がりを模索する注目の作家が、1年半ぶりに登場。
2月に東京・渋谷のBunkamura Galleryでのグループ展では高 い評価を受けた連作『泥で洗う』の新展開がニュートロンで見られることに。
「食べる」という行為の場において、食卓の上に置かれるものとは・・・?




comment
ニュートロン代表 石橋圭吾

 私達の立っているこの地面は、果たして本当に平らなのだろうか。そして私達はその上に、本当に真っすぐに 立っているのだろうか。あるいは立たされているのか、地面に抗って(あらがって)立とうとしているのだろうか……。大和由佳はこのような根源的で、普段私 達が疑問にも思わないような問題?を切実に問いかけている。自問自答とも言えるし、作品を通して鑑賞者にも同じ問いを投げかけてもいる。

 地面が平らであるかどうかなど、疑う余地も無いと思っていても、いざ問われた時、何かそれを証明する術はあるのだろうか。また、私達がやはり疑いもなく 「立っている」と感じている事を、どうやって再現したら良いのだろうか。大和はなぜ、そもそもそんな問いを抱えているのだろうか?

 「大和はなぜ…?」の答えは今すぐに出せるものでは無いが、平らであること(水平)と真っすぐに立っていること(垂直)は、作家自身が見事にインスタ レーションや小作品、ドローイングを通じて表現している。直近の展覧会であった、東京・渋谷のBunkamura Galleryにおける発表では、会場中央に菱形の陣地を敷き、あたかも地面から浮き彫りにされたかのような窪みを造り、そこに「水」が張られることに よって水平を現出させた。一方、その水面に触れる程度に天井から吊り下げられたアクリルの棒が、菱形の内縁に沿う様に並び、垂直を表していた。一見、その 棒は「立っている」様にも見えるのだが良く見ると上から吊るされている。檻の様な外見からも、堅牢と不安定を同居させた不思議な印象を与える。「泥で洗う -cage-」と題されたこのインスタレーションには、まさに「水」に砂を混ぜて泥状にしたものが沈殿し、また吊るされた棒にもそれぞれに程度の差をつけ て泥が(下から吸い上げられたかの様に)付着している。「泥で - 洗う」とは反意語にも思えるが、「泥」は汚いものとしてではなく、地中からの養分をたっぷり含んだ“手触り”や“温度”のあるもの、大地との“繋がり”を 想起させるものとして使われる。その「泥」によって汚された / 洗われた棒はあたかも、人の手が触れた痕跡を誇らしげに示すかのように、「泥」によって生命が与えられたかの様に、何故か活き活きと輝いて見えるのだ。

 もちろん、作品の解釈は鑑賞者に委ねられる以上、解釈は自由である。大和自身もあまり言葉での説明は好まない。しかし「水平」「垂直」「泥」「檻」…と いったキーワードは早くから作品に登場し、関係しあい、次の作品を予感させる。単なる一過性のテーマとしてではなく、作家本来の、ずっと追い求めるべき課 題なのである。インスタレーションと小作品・ドローイングは密接に関係するから、発表を追いかけるごとに大和の生み出す事象に対する理解は自然と深まる。 例えば最初に出されたときに意味が分からないと感じたドローイングの事象が、次の次の個展くらいではインスタレーションに発展して見事に世界観を現出して いたりする。

 自らが手探りで確かめようとする世界と、他者が認識する世界と、どう関係し、どう結びつくのか。それは即ち、自分と他者という人間関係の問題にも繋がる が、生き物としての人間の直接的・感情的な結びつきを表現すると言うよりは、それぞれの世界(領域)の接点を探る・あるいは結びつけることによって、結果 的に自分と他者との接点を模索している様にも感じられる。大和のよく用いる菱形という形状は、真四角よりも有機的で、連なる・接する事により不可限的なパ ターンの連続を生み、世界が広がっていく事を可能にさせる形だと言う。前回(2006年11月)のニュートロンでの個展では、4台の四角いテーブルを(菱 形を意識して)角を向けて配置し、無限の中の一部であることを感じさせ、Bunkamuraでの菱形の田んぼ(または檻)も、その向こうに広がる世界(実 際に、大西康明、大舩真言の各作品展示へと繋がっていた)を背景にしていた。

 さて今回は、会場に「食卓」が置かれるという。「食べる」という行為の場を他者との接点とし、ちょっと新しい試みになりそうである。卓上に広がる光景は果たして、どこへ繋がっていくのだろうか?