neutron Gallery - 伊吹 拓 展 『 fan 』 - 
2005/4/26Tue - 5/1Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

筆を振るうことによって開かれる視界、それは新しい道でありながら一つの軸を中 心に転回される世界でもあった。花あるいは植物というモチーフを通して形態や色彩、 画面の広がりを考察しながら自身の心を投影し続ける。絵画を本格的に志して以来の の集大成とも言える発表。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

  今の時代に絵画を志す者をあえて大雑把に2種類に分けるとするならば、一方は現代アートという疑惑の範疇からフレームを眺める者、もう一方は全く疑いも無く全身全霊を画面に叩き付ける者であると言えるのではないか。どちらが良い / 悪いではなく、私はその両者に惹かれる。片や理屈と時代性と自己矛盾を孕んだ「平面としての」作品はその平面性、支持体となるキャンバスやパネルすらも疑惑の目で睨みつつ鑑賞しなければいけないが、それは推理にも似て、必ずしも作者の意図する答えに辿り着かずとも、その思考を巡らすことがまた楽しいのである。そして後者は、言う間でも無くそのような疑念を最初から取り払い、鑑賞者も全身全霊を画面に預けることが出来る。眼前に迫る光景は作者の言い訳も聞かず存在し、時に作家の存在をも超えて世に問われる。作品とは作者の分身でもありながら同時に客観的に存在する自立した産物でもある。しかし現代アートにおける作品群の多くはそれを語る時、少なからず社会的情勢や然るべき手順を踏んだ上での考察が必要とされる。それ無しでは、作家が伝えようとする100%のメッセージを汲むことは困難であろう。そこでは作品の自立性は、関係する他者との相互関係次第で大きく変化する。即ち作品は作家及び社会の束縛から逃げ様も無い。
  伊吹拓が描くのは全く個人的な産物としての絵画である。もちろん、この時代に生きている若者として同じ情報や流行を共有しているのは間違い無い。しかし彼が描こうとする事象、捉えようとする景色は全くをもって彼の視点であり、私たちは完成した作品と対峙する時にはひたすらに画面と向き合い、何の言葉を要するでもなく、私たち自身が感受する様々な印象を黙って受け入れれば良いのである。当たり前のことだが、今さらそんな事を言うと新鮮な気持ちにすらなる。事前に言葉や情報を必要とする物が多すぎて、何も無しに物事に向かうのは不安すら覚えるからだ。その不安は、作家としての伊吹の中にも存在しないとは言い切れないだろう。しかし彼がオーソドックスで強靱な画家たり得る由縁は、迷いや不安と言ったものを消化しながら絵筆を振るうことによって前に進むことが出来、そういった絵画の旅路を人生の中で「ライフワーク」として楽しんで行こうとする姿勢が有るからだ。人々にとってアートや美術といったものは本来、生活をより豊かに感じさせるものであるはずではないか?だとすれば、殊更に時代の問題点を(しかも言われなくても知っていることを)グロテスクなまでに強調されても、楽しくはない。私は作品を見る時、そこに様々な意図が有ったとしても、素直に美しい、楽しいと言える物が好きだ。なぜならその為に多くの人が会場に足を運ぶのであり、知ったかぶりの蘊蓄を聞きに来ているのではない。いや、「美しい」「綺麗」以前の、言葉にならない感情を発見した時、その作品との出会いは生涯忘れ得ぬものとなるだろう。その為に、作家は絵を描き、私はそれを求めているのかも知れない。
  「fan」と題された伊吹拓の個展は、今のスタイルで作品をつくり出してから現在に至るまで彼が取り組んできた制作の総決算と言える内容になるだろう。しかしそれは全て新作である。なぜなら彼の軸は全く動かずに、周囲の出来事や事象が目まぐるしく変化するのだから。彼こそが、自らを自立させながら大きな絵画の旅路を展開させる起点であり、「fan(風を送る者)」であるからだ。彼は何も変わらない。変わるのは、私たちが絵の中に見る新鮮な驚きだけだ。