neutron Gallery - フジイタケシ展 - 
2005/3/8Tue - 13Sun 京都新京極 neutron B1 gallery


Artist , Works

【 作家、作品紹介 】

「触知的な記憶のかたち」

ちりて後おもかげにたつぼたん哉

 蕪村の残した作品の中に数多く、記憶にまつわるものがある 。つい最近まではそこに咲いていたはずの花が今はすでに見る 影も無く、しかし記憶の中にはその姿 を鮮やかに残している 、といった趣がある。旅に生き俳句を詠んだ蕪村の リアリティーは今を生きる我々の日常とかけ離れたものではな く、誰もが持つ感覚的 な記憶にとても近いものである。
 フジイタケシを制作に突き進める最大の要素として日常から 少し離れたところでの出会いとしての「記憶」があげられる。 その「記憶」というものは映画の ワンシーンを思いおこさせ るといった映像的な記憶ではなく彼自身が日常、突如 (あるいは突然)出くわした「触知的」な記憶である。それは 、彼が辿ったスペインの風土の中で見つけたものであったり、 バイクで旅をしていたときに風景の中で偶然に見つけた小さな 掘建て小屋であったりする。
  彼との会話の中で興味深かったのが、途方も無く大きな薄汚 れた壁に研磨機を手に立ち向かっている作業員の姿を傍らで眺 めていた話である。削ってもさほど代わり映えのしない壁に、それでも挑む男の姿を興奮しながら語るフジイの姿に 妙なアイロニーを感じずにいられなかったという記憶がる。 現代に生きる ドンキホーテ的な話が、シーンとして浮かびあ がらずに触知的(削られた壁の質感や埃っぽい匂いといった) なものとして受けとめたのは、私自身の記憶の中のそういった 類いのものと接点を感じたからであろう。

 画家の中西夏之はその著書「大括弧」(筑摩書房)の「夏の ために」という章の中で次のようなことを述べている。「夏の眼は潜水で泳いでいる。水は眼をこすりながら、水の中 の形や色彩の刺戟を網膜に送り続ける。炭酸ガスが肺をいっぱ いにした時、水面に浮上し眼は開く。 その時、眼は無防備であってもいいとでもいうように、おだや かに開き、水面から上の、遠くの、あるいは近くの色彩を網膜 にうつす。」  

 ここで大切なことは、とても個人的であるはずの感覚的な記 憶というものの中に他人との共有しうる点が含まれているとい うところである。フジイ自身の経験においての出来事が、他人 (少なくとも私も含めて)の共通な問題として 語り合えるというところには、誰もがそうした触知的な経験と いうものを経て現存しうるということであろう。赤ん坊がそう であるように我々は言語でものを理解する以前は全身の感覚機 能を鋭敏に、そのものを認識するということに努める。 壁を削る男の話にアイロニーを感じたのは、すべての子どもたちがそうした「くり返し」の中に意味など求めずに記憶としての断片を欲求という形とで探しているのではないかということ である。

 中西夏之は同書でこうもいっている。「夏の眼は息をこらし て潜水で泳ぐ眼である。そういう盲目が本来の盲目という事柄 であり、それが夏の終わりと同時に自然的に開眼すると期待してしまうから、夏は何時も強烈な "思いで" となって 心の中に沈んでいこうとするのではないか。」
 このことは、フジイが自ら経験したことを記憶を頼りに視覚 化するというプロセスととても近いように感じている。こで作 り出されたものがあらたな記憶の断片として見る側へ伝わるこ とを期待している。

美術家 / 大学講師 中川佳宣