neutron Gallery - 大和 由佳 展 - 
2004/12/6Mon - 12Sun 京都新京極 neutron 5F gallery
2004/12/7Tue - 12Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

身近に存在、発生する自然現象と自身の体験や感情がリンクし生まれる表現は、ドローイングや小立体、インスタレーションという形で作品に昇華される。心の中に広がる大きくてつかみ所の無い心象風景を、少しでも認識する術として大和は今日も色を選び、形を選ぶ。昨年に続き今年も両階を使っての繊細で圧倒的な展示。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  昨年の同時期、大和は初の個展となる発表をニュートロンの5階と地下、それぞれ性質の異なる両空間を用いて行った。なぜそのような形態の企画を発案したのかと言えば、ドローイングとインスタレーション、大きく分けて2種類の制作形態をそれぞれに見せるということが挙げられる。そして今回もそれは同様である。ドローイングとはインスタレーションのプランともとれるし、もっとシンプルな、アイデアの図案化とも捉えられる。またそれが、平面として紙に書かれているものであっても、小立体の形をとっても、やはり同質の存在であると言える。それらは確かに1点で存在し得る作品性を持ち、一方で他のドローイングと意識の上で繋がりながら、大和の内面に存在する広大でささやかな心象風景を具現化する際のスナップ写真のようなものだろう。心象風景と言えば簡単な言い方だが、実際、「心象」と「風景」はおよそ別物のはずである。「心象」は人それぞれの胸のうちに存在する曖昧で形の無い感情や心理的状態を指すのだとすれば、それ自体は絵にも言葉にもならないモヤモヤした煙のような不安定なモノである。そして「風景」とは、一般に眼前に広がる光景、眼に写る事象としての存在を意味する。それらを足してひと括りに「心象風景」とするのであれば、そこには両者の決定的な繋がりと化学反応が必要なはずだ。「心象」を「風景」に代弁させる、あるいは「風景」を「心象」で描き表す。どちらも作者にしか分からない理由が存在し、その繋がりは作者の経験や心情によって形成されるため、観客はその気持ちを完全に把握するのは難しい。それが望まれているわけでもないだろう。しかし、単なる「写生」としての「風景画」と「心象風景」とでは、大きな違いが存在するはずだ。それこそが、模写を典型とする技術的に「絵を描く」行為と、ある人物から生み出される作品としての「絵を描く」行為の絶対的な分かれ目となる。すなわち、言い換えれば「作家」と言う者は皆、それがどんなに写実的であろうとも「心象風景」を描いているはずだ、とも言える。またはその反対に、一切の「心象」を排除した写実性を重んじる行為も、逆説的に言えば「心象」無くしては成り立たない。
  ここで大和の話に戻すと、彼女の「心象風景」は雄大な大自然でも都会のジャングルでも旅先の異国でもなく、身の回りのふとした瞬間に立ち表れる自然現象にリンクする。それは雨上がりの水たまり、軒先のつらら、足下に鮮やかに死に絶える落葉、あるいは木漏れ日。それらは自然という絶対的な法則を基に容赦なくサイクルを繰り返し、我々に人間と言う生き物としての習性を否応無しに喚起させ、時に絶望させ、時に喜ばせる。しかし「自然現象」は人間が、一個人が居る、居ないに関わらず、当たり前に行われる出来事である。悲しいかな私やあなたが居なくても、地球は廻るし、雨は降るし、生命は育まれる。そして新しい愛が生まれ、やがて死ぬ。それら全てが行われている過程のほんの一瞬を、我々は見ているような気になっているに過ぎない。大和の作品、特にスケールの大きさを備えたインスタレーションを見ると、雄大な流れ、火山、氷河などを連想するのは容易い。また、ドローイングを一つ一つ見ても、それらを植物の種子や山河、光り等に例えるのも容易である。もちろんそれは間違いではない。しかし大和は、それらの光景を「眼前に」見ているのではない。それらは全て大和の心の中に存在するモヤモヤやドキドキ、あるいはズキズキから立ち表れる光景である。でもそのきっかけになるのは、他ならぬ「眼前の」出来事でもある。そして内と外が裏返り、混じり合い、侵され合いしてでてくるのが作品なのだとすれば、そうして出てきた風景は作家をはじめ誰の所有する風景でもなく、かつ誰にも開かれた風景なのだと言うことになる。
  「落ちる」「流れる」「垂れ下がる」・・・これらは全て鉛直の力の作用である。万物の現象は地球の重力によって、ほぼ絶対的にこの力の影響下にある。おそらく、人間という生き物の精神にもそれは宿る。だが、時にそういった力の影響がふっと外れたような、周りの重力が軽くなって浮いてしまったような瞬間が無いだろうか?気が抜けた時、悲しみの意味を知った時、あるいは恋に落ちた時。理性を超えた、何ごとも「滞る」瞬間。それは鉛直の流れにおいて立ち止まる瞬間でもある。それは滝の裏側の隠れた足場や洞くつ、河の中州、山の中腹、砂漠のオアシス、あるいは夜明け前の静けさ。日々の生活の流れを忘れて、しばらく留まり、思案し、そして動き出す前のささやかな時間。今回表れるのは、そんな光景なのだろう。