neutron Gallery - 劉珊 展 『 LDISTANCE---幸せを感じる距離 』 - 
2004/12/14Tue - 19Sun 京都新京極 neutron B1 gallery


インターネットやデジタル技術の発展で、私達のコミュニケーションははたして  本当に向上し、豊かなものになったのだろうか?  メディア・アートという手法を用いて人間の心の交流を模索する。 「幸せを感じる距離」は人それぞれ。作品に触れ、楽しむことで見えて来る、あなたにとってのDISTANCEとは・・・?





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  劉珊は中国からの留学生である。京都精華大学においてメディア・アート分野をこの春に卒業し、現在は同分野で大学院に進んでいる。彼女は作品の提示方法に興味を持ち、参加型ムービーという形式の映像作品を制作している。その制作の過程では彼女自身によるイラストレーション、アニメーションというソフトが活用され、提示方法においてはインスタレーション(主にインタラクティブなもの)として発表される事が多い。つまり劉珊のコントロールする範囲は非常に広く、そこから生み出される「作品」は単独での成り立ちよりも観客との双方向のコミュニケーションを発生させることを第一の目的とし、さらにそこから受け取ることのできる様々な感情、思考、及びリアリティーこそが作品の本質と言えるだろう。何の「リアリティー」かと言えば、すなわち同時代に生きる者としての共通な感覚、問題意識と言い換えることが出来る。それは「コミュニケーション」における現代の抱える諸問題と密接にリンクすることは間違い無い。劉珊は彼女の出自である中国から渡り日本においてこの問題を扱うにあたり、私が思うにいささかのハンディキャップも感じさせない。もちろん、言語の壁を乗り越え、文化の違いを把握しながら過ごしてきた年月がそうさせるのだが、それにしてもその適応力と言語感覚は素晴しい。私も舌を巻く程である。
  先述の通り劉珊の制作・研究分野は「メディア・アート」なのだが、そう言い切ってしまうとデジタル技術ありきの表現に聞こえてしまい、少し躊躇する。なぜなら、確かにコンピュータを始めとするデジタル技術を駆使し、ネットやインタラクティブなツールを媒介としてコミュニケーションを模索し「作品」として提示するやり方は「メディア」に依存していると言えなくは無いが、それがアナログな作業では不可能かと言えば、決してそんなことは無いだろう。その証拠に手描きのイラストレーションは彼女の重要な表現手法として存在するし、人の「手触り」を感じさせるような演出を見ても、そこには人間の血の通ったコミュニケーション、つまり皮膚感覚や呼吸(「間(ま)」)を大事にする意思が伺える。それを果たさんが為に一番有用とされているのがデジタル技術であって、もしそれが相応しくないと思われる場面では、それは選ばれないだろう。ここには先進の技術を学び、吸収しようとする研究者としての真摯な姿と、一方で自身の制作における有益性を見極める客観的な作家の姿勢が同居する。だからこそジャンルに埋没せずにメッセージを発して行けるであろう、理想的なバランスを感じとることができるのである。
  さて今回の個展のタイトルである「DISTANCE---幸せを感じる距離」とは、どのような距離なのだろうか。思えば、ネットやメールを始め現在私達が日常で当たり前に使っているツールは皆、私達自身の生活のスピードを加速度的に向上させ、地域的・経済的優劣を少なからず解消しながら支持され、発展してきた。今や世界中においてリアルタイムにニュースを受け取り、レスポンスすることは難しくもない。もはやネットで繋がる世界においては、どこに住んでいるか、誰であるか、という問題は意味を成さず、地理的・心理的距離も限り無く近付くことができる。では一方で、本当の「距離」はどうだろう。どんなにメールが速やかに送られようと、その人に会って話をすることは相応の時間と移動に伴う金銭、労力を伴う。便利になったからこそ逆に、それらの当たり前な出力は節約され、軽減されているようにも思える。会うより電話、電話よりメール、言葉より画像・・・。一見、どんどん簡略化されスピードアップと効率化が図られているようにも感じられるが、どんな時代においても人間は皆、絶対にコミュニケーションを必要とする。生まれてから死ぬまで、誰の手も煩わせずに一人で生きていける人間など居ない。だからこそ、人が必要であり、愛情が必要である。しかしデジタルによる仮想コミュニケーションが発達すればするほど、実際のそれは不完全で未発達なままに滞ることも考えられる。どんな技術にも必ずメリットとデメリットが存在するように。劉珊がもし生活においてコミュニケーション、つまり他者との距離を取ることに少しの不自由やジレンマを抱えていなければ、このような制作に結びつかないだろう。そしてその「作品」に共感することのできる私達も皆、同じである。問題は作品となって作家の手を離れ、私達に委ねられようとしている。