neutron Gallery - 藤岡雅人 展 『 The Voice of Color 』 - 
2004/11/2Tue - 7Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

あえて「日本画」を定義するならば、「日本古来の天然素材を由来とする絵具を 使った表現」と言えないだろうか。 化石や鉱物、植物等豊かな自然から生まれる「色」を通じて人間の内に秘める宇 宙を描こうとする、実力派作家。 今回は「青」をテーマに深く、広く浸透する作品を発表。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 日本画という言い方の是非はさておき、つくづく日本古来の画材、特に絵具は素晴しいなと改めて思わされることがしばしば有る。ニュートロンでも、過去にユニークな日本画出身作家を企画してきたが、各自の方向性はバラバラでも、共通して言えるのは「絵具」つまりは素材として、日本画で使われる多くの物を愛し、多彩な表現を支える源としていることであろう。藤岡も例外に漏れず、いや、むしろその最たる者かも知れない。何しろ仕事としても日本画の絵具を開発する研究をしているくらいだから、まさに「趣味も実益も」である。いや、趣味と言っては失礼だろう。彼はそれほどまでに古来からの素材にのめり込み、それらの発する色の虜になってきたのである。
  鉱物、植物や動物の化石、貝殻、結晶など様々な天然素材に由来する顔料はいったい何種類くらいあるのだろうか。いや、色彩というのに絶対数は無いはずなので、突き詰めれば素材の数だけ色が有るとも考えられる。そしてさらに、たとえば石の形状の素材を砕いて用いる場合、その粗さによっても色調が変わる。すなわち砂粒としての大きさ次第で平面上にかすかな陰影の効果を生み出し、あるいは発色を変化させ、膠(にかわ)との絶妙な相性も手伝って、決して化学的に調合された西洋の絵具には真似の出来ない色を生み出しているのである。それらは本来、日本画と呼ばれて久しい日本古来の絵画の根本を支えてきたのだからあえて形式上の分類が必要とするならば「日本画」とは「日本古来の天然素材を絵具として用いたもの」を指すと理解できなくもない。すると、逆説的にその表現の枠を制限しない。もちろん合成絵具と併せて用いたとしても、それが何か問題にでもなると言うのだろうか?詰まる所、藤岡を含め若手の日本画(あえて便宜上用いる)出身者の挑戦とは、逆説的に日本古来の絵具の再評価と新しい表現への渇望、と言い切っていいだろう。
  さて、その藤岡は、10年前に志を同じくする若者達と「尖」という制作団体を結成し、以後毎年美術館で団体展を開催し、小規模ながら着実な歩みを見せてきた。もちろん「尖」における各作家の試みは多様であり、藤岡が「尖」を代表する、と認識するのはいささか間違ってもいるだろう。それぞれのモチーフや制作テーマは違っても、やはり上記のように日本古来の絵具の開放(自由への)を目指している点では同じと見るべきか。その10年の歩みの中でも、藤岡の抽象的であり、「色彩」の影響を重んじるスタイルは毎回のように趣向を凝らしたテーマで「脱・日本画」を強く印象づける。2001年あるいは2002年あたりの作品ではミクロコスモスから大宇宙まで感じさせるサイエンス・ロマン風な発表であり、ビビッドな配色と絵具とのマッチングはマットな風合いを残しつつ迫力のある仕上がりである。やがてここ数年は複数の色を同一画面に配色する傾向を弱め、明らかに単色それぞれの振幅、加減、影響力に制作の柱を立てている。彼自身が言う様に、一つ一つの色がその由来を持ち、メッセージを持ち、宇宙を内包しているのだとすれば、彼の挑戦は画面の中で集結するものではなく、その絵具の由来、すなわち素材及びその歴史との格闘であり、日本というアイデンティティとの対峙、あるいは地球という母体との交歓とも言えるだろう。
  私達人間には色に対する感情や想い出が尽きない。好きな色、そうでない色、忘れられない色、思い出せない色。問題なのはイマジネーションであり、色によって呼び覚まされる意識や記憶である。それこそは私達人間の内部に脳波によって形成される偉大なる小宇宙の源であり、「個性」や「外見」といった外側の特徴をも左右する。つまりは「あの人は〜色だ」と感じる時、きっとそのような色覚的特徴を備えたメンタルな脳波の電気信号が発せられているのではないかと思う。それは直接的に、人間の感情の起伏と色調が密接にリンクしていると考えるからだ。さて、では「青」という色からあなたが受け取るイメージとは・・・?