neutron Gallery - 武田コト 展 『ざわめきとざわめき』 - 
2004/10/26Tue - 31Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

自身のハンディとコンプレックスから生まれる「夜の写真」は今や内面的な成熟を も備えつつ、自身と人との距離や感情の揺れ動く様をも重層的に見せる、3回目の個 展。「夜」「人」「部屋」の3シリーズから構成される今回は、より人間らしさが感 じられるものになりそう・・・。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  早いもので、武田コトの個展を開催するのはこれで3回目となる。前回が昨年末12月最終週だったから、今回の個展に至るまでに正味10ヶ月程度の準備期間しか無かった訳だ。しかし2回目となる前回個展で、写真に対する真摯な取り組みや自身の表現に対する渇望を知り得た私は、この短い準備期間での企画にいささかも躊躇しなかった。それは表現者として、いや一人間として、表現と言う愛に飢えている者の強さ(あるいは弱さ)が必ずやきっと己を成長させ、より質の高い写真作品を見せてくれるであろうと信じていたからである。そしてその期待に、彼は見事に応えようとしていると言っていいだろう。

  前回のプロフィールにも、あるいは今回の彼自身のステートメントにも記してある通り、彼は日光の降り注ぐ昼間に外出や活動をすることが出来ない体質の持ち主である。仮に無理にそうしたら、今までに私も幾度と無く目にしたのだが、その後1週間は体調が優れずにしんどい思いをし、後悔するのだそうだ。当然ながら一般の社会生活には適合できず、仕事もままならない。にも拘らず彼は結婚をしていて、かわいい子供まで有る。そして愛すべき家族に囲まれ一見幸せな愛に包まれているかと思いきや、そこにはやはり彼なりの孤独や悲哀と共に、写真家の資質として最も重要だと私が思う「自分の周りのもの全てに対する信頼と不信感」が存在する。別に彼のプライベートをこれ以上包み隠さず公開しようと試みているのでは無い。写真を撮る者として、自分だろうが家族だろうが恋人だろうが、時としてそれに対して被写体としての認識のもとに残酷なまでに冷徹に向き合うことも必要であり、そこから生まれる孤独や悲哀から再び人間に対する憐憫や愛情、さらにはもっと複雑で整理できない感情が湧き出てくる。いや、写真に限らずかも知れない。己の弱さを知らずして強くはなれないし、ハンディを背負わなければ努力しようともなかなか思わない。また、愛情は与えられるものだとばかり思っていれば時として裏切られ、身勝手な自己愛でも磨きをかければ立派なラブ・ストーリーに成り得るのだ。

  とにかく彼の活動時間である「夜」に、実に様々な事が起こる。現実的には眠りについた町だから、物事が起こるのは彼の精神の内部においてだが。静まり返った住宅地、学校、交差点や公園。そのどこにも人影は見えないし、私達は彼とともにそこに立ちすくむ。そして自らの不自由な生活から一時だけ逃れられる至福の時間を味わい、同時に漆黒の孤独を感受し、さらには言葉では言い表わしようの無い「ざわめき」を覚える。それこそが彼の夜の写真全てに映っているものであり、風景を通して彼が感じている五感の全てである。前回の個展ではこの夜景に焦点を絞って大作を見せたが、今回はこの夜景の新たな写真連作に加え、別のシリーズも用意される。彼の何よりの被写体であり、愛情を注ぐべき家族であり、時として全くの他人にも成りうる人たち。これら身近な人々を捉えた「人の写真」と、室内において突然の不安や衝動にかられるまま撮影した「部屋の写真」。これらそれぞれが、彼の心をかき乱す存在であり、環境であり、全てである。

  技術的なことにあえて触れるとすれば、ここ最近の変化としては、夜の町の撮影において露出適合の上で一度しかシャッターを押さなくなったと言う。以前は慎重に露出計のプラスからマイナスまで3カット撮影していたのだから、少なからず機動性と一枚にかける集中力は増すだろう。さすがに夜間なので三脚は使用するが、もはや手持ちカメラの感覚に近い。フィルムはネガを使用しているため、色味にも変化をもたすことが出来るし、それによって印象も変えられる。ポジのベタ黒と違って微妙な色味が混在して影を成すため、あいまいな存在や感情を表現するには相応しいと言える。何より彼は、写真を楽しんでいる。

  ここまで読んでお分かりの通り、彼はもはやハンディを克服するだけでなく、一人の表現者として、写真を通じて歩み始めているのである。私達が持つ人間的な弱さやコンプレックスは、それを自覚することによって何かを生み出す糧となる。翻って人間の心を打つ表現とは、そのような絶対的・必然的な環境や欲求から、生まれてくるような気がしてならない。