neutron Gallery - 佐竹永季 展 『日記のようなもの』 - 
2004/1/20Tue - 25Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

失恋に思い悩んで散らかり放題の部屋の様子を、写真に収めて自らの心象風景と して提示。 デザインの要素も盛り込みながら、女の子特有のエキセントリックな面と 客観的な側面を見せるインスタレーション。成安造形大学写真クラス在学中。






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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  俗に言う「女の子写真」が市民権を得てかれこれ10年近くが経とうとするが、今現在においてもその着眼点やクオリティーで見る者を説得できる者は、決して多く無い。むしろプライベートな視点、イメージの羅列は方法論としても飽きられている時期に来ていると言え、よほど独自の切り口や提示が無ければ軽く流されてしまう。そもそも写真というメディアは安易に取扱われることが多く、いくら「時代性」という言葉を用いても見る行為自体が面倒だとさえ思える時がある。その原因は「撮り手」の意識に有るのは間違いないであろう。

  佐竹はそのような範疇に入れる事ができない訳では無いが、もっと別の次元で語られるべき「写真」を提示している。いや、「写真」はあくまで彼女の見せようとする世界と現実の媒介としてのメディアに過ぎず、一つの手段と言える。では、佐竹が見せようとする世界観とは何か。現時点で言うとすれば、それは「究極のプライベートから発する普遍性」であろうと考える。中途半端でなく、極限まで自分という殻に潜り込み、その内部をえぐって削り取って来た写真(表現)。彼女の表現対象となるものは常に「自分」と「社会」との接点におけるプライベートな喜びであり、悲しみである。自主制作写真集「life」における彼女のライフは、あくまで一個人としてのものでしか無いが、そこに漂う時代の空気や共通項は同時代に生きる者を引き寄せる魅力を備えている。「イメージ」は「例え」でしか無いとしても、「私個人」の生活臭にまみれた「像」としてのイメージは、実感としてのリアリティーを目の前に突き付ける。そこに嫌悪感を抱く者もいるであろう。こういった「切実なる」表現はまた、女性特有と言っても良いものであり、昨今では曝け出すこと自体がそれだけで表現としてまかり通る風潮さえ感じる。私はそこに線引きが必要では無いかと思うことも有るのだが、その話はここでは割愛する。いずれにせよ、佐竹は女性として言わばまっとうな表現者で有ると感じる(ジェンダーの問題や「女性」として・・・という問題は敢えて先送りするとして)。

  今回の企画は、写真を用いたインスタレーションである。そこには、彼女が吸収してきた「デザイン」も活用される。我々が目にするのは、かつて彼女が失恋して絶望のどん底に居た頃、暮らして居た部屋の状況である。ゴミは散乱し、衣服は脱ぎ捨てられ、あらゆる物が床にランダムに配置されている。そこに意識が無いとは言えないので「配置」と言うが、要するに徹底的に散らかっている。その様をなぜか彼女は好んで撮影した。「日記のように」。そう、彼女は自らの絶望的な心象とその暮らしぶりを、何とも客観的に捉えつつ、巧妙に写真という記録を用いて「表現」に昇華しようと試みるのである。そこには計算が有る。だからこそ、「デザイン」という言葉が当てはまる。この点において、彼女は凡庸の「女の子写真」と距離を置き、また自らのプライベートを曝け出しつつもしっかりと演出する辺りに、心憎いばかりの才気を感じさせる。「毒をくらわば皿まで」か、どうせ落ち込むなら徹底的に落ち込んで、それを後々笑ってみようではないか、と言った趣だろうか。いや、そこまで考えていなかったとしても、「写真」を道具として利用できる素養を充分に感じることが出来る。決してダラダラとイメージを羅列するのでなく、「見せる」事においてその責任と高い美意識をもって整理することが出来る。散らかってどうしようも無い部屋を、きっちりした計算の基に「整理して」再現するのだから、面白い。それは自分自身のコントロール、自己と社会との関わりにおける距離が取れているからこそ、出来る行為である。私はこのような部分に、佐竹の魅力を感じる。ゴミや衣服が散らかって放置されている状況は自己の殻に隠って他者を断絶する意識の現れであるが、その意識を再現し、発表しようとする試みはもう、他者との立派なコミュニケーションに他ならない。