neutron Gallery - 金 未来 展 - 『 第一章 〜 第三章 』
「 物語の幕開け (狭間に埋もれた心理の空洞) 」
2010/5/11 Tue - 23 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 金 未来 (平面)

 仄暗い幽玄の闇から立ち上がる、美しくも毅然とした女性像は口を閉ざし、周囲を漂う蝶や海月、数多の暗がりの生き物達は生命力豊かに飛翔する。

 「ハレ」の支配する現代の喧噪の中に突如として現れる「ケ」の静 かな世界の存在を、私達は無視することは出来ないだろう。

 気鋭の新人が挑む全十章の大作シリーズの始まりを、刮目して見よ。



「夢とうつつ2010 」
2010年 / 409×318mm / 絹本、岩絵具、染料、金箔


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 唐突に「第一章」から「第三章」まで、とされると何についての章なのか、果たしてどれほど長く続くものか、いささか面食らうことは否めない。詳しくは金未来という若き日本画家が提示する長編作品全十章のうちの第一章から第三章まで、という意味であり、高さ190cm、横幅130cm の一作品を一章と数え、それを全十枚描くことによって完結するシリーズの、出だしの部分を指すと思って頂いて間違いは無い。ただし一章から三章までの三部作にタイトルが用意されてはいるものの、肝心の全体像にはそれが存在しない。いや、未だ存在していないが、いずれは(おそらくは十章まで完成した暁には)正式に名付けられると考えるべきだろうか。そこに何と名付けられるかは私の知る所ではないのだが、全十章の内容が作家の抱えるテーマを包括的に表すものであるとするならば、やはり「光」と「闇」というキーワードは外せないのではないかと推測することは出来る。

 20代の作家にとって「光」とは未だ手探りの先にある希望と捉えることも、「闇」は暗中模索の只中の意味であると捉えることも許されるかもしれないが、果たしてそれだけかと言えば、金未来が主張するその両者はもっと人間の思考にまつわる根源的な部分に存在するものだと気づく必要があろう。いわゆる「幻想文学」「幻想美術」と銘打たれる歴史上の思想及び表現が、彼女の試みに近づくヒントにはなるかも知れない。人間の底知れぬ欲望、宗教的価値観の反動によるアナーキズムが生み出す数々の表現は時代の中に痛烈な一撃を見舞い、やがて文化の成熟を促し、必要悪として評価されるに至ったとするならば、果たして金未来が今この時点で見ている光と闇は、そういった歴史上の産物を感受性豊かな視点で再構築しているだけなのだろうか。私はこれについて即答で「YES」とは言い難い。何故なら彼女の絵にもステートメントにも、人間の感情を逆撫でするような刺激的で直接的な攻撃姿勢は見て取る事はできず、その画面からは一見して穏やかな・落ち着いた風情であり、静謐な佇まいこそ感じられるものの、いたずらに好奇心をもてあそぶような要素は浮かんでこないからである。

 では作家の見据える「光」と「闇」とはどういったものなのか。ここでは「光」を「闇の先に見えるもの」として捉えることにより、焦点を「闇」という暗がりに絞ることにする。そこで気づくのは、彼女の絵がどれも背景に暗澹たる・深い海の奥底のような色調を帯びており、まさに光の届かぬ地点での出来事を描写しているのではないかと思う点である。時に燃え盛る炎のような赤、または真っ青な水面のような群青を帯びることもあるが、ほぼ一様にそれら背景は奥行きが閉ざされ、鑑賞者の視野は決して広くない範囲で塞がれており、必然的に目の前のポートレートに焦点を合わすことになる。その表情は極めて無きに等しく、喜怒哀楽といった感情を読み取るのは困難であり、そして不思議なことに、その瞳は角度を変えて見ても鑑賞する私の方をじっと見ている様な錯覚に陥るのだ。描かれている女性の顔は何となく作家本人にも似て、実際に多くの鑑賞者からそういった指摘を受けるそうだが、作家は自身を描いているという意識はあまり無い。ただし思考を具現化する過程で形成する表情は必然的に、思考を持ち歩く作家自身にも乗り移り、両者は極めて近い関係にあるのだという事は言えよう。

 とにかく深海のごとく閉ざされた暗闇を背景に、モチーフは毅然としてこちらを見据えている。泪を流すものもあるが、悲しみという一律な感情だけがストレートに伝わるわけではなく、目を閉じているものからは恍惚のような、あるいは諦めのような表情を見て取ることは出来ても、その真意は定かではない。多くの表情は決して口を開くでもなく、ただじっとこちらを見据えているだけである。蛇や蝶、花、海月・・・などの象徴的で装飾的なモチーフを身に纏いながら、おそらくはそれらも「コスプレ」ではないが瞬間的な在り様に過ぎず、本質的には描かれている存在は普遍(不変)であることの暗示であるようにも見て取れる。記号的な要素に目を奪われ過ぎては、画面上の存在そのものを見まがうような、誘いに引っかかってしまうかのように。

 まるでこの闇は人間の心を映し出す鏡のようなものである。想像という、人間に与えられた才能を逆手にとるように姿形を変えて現れる存在は、作家自身の化身でありながら、同時に私達を誘惑し苦しめる根源的な何かである。深い海のそこにはきらびやかな光も、都会の喧噪も、気ぜわしさもストレスも狂乱も届かない。美しい人間の姿を象った存在はその無言の有り様に、人間の秘めたる可能性や能力を思い出させるかのうように、ただゆらゆらと揺れ動き佇むのみである。