neutron Gallery - 西川 茂 展 『 inviolable 』 -
2010/3/30 Tue - 4/11 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 西川 茂 (平面)

荒涼とした大地の広がり、遥に見える地平線。あるいは視野一面に敷き詰められた花畑の絨毯。

美しくもどこか物悲しい風景から得られるのはもはや情報ではなく、感覚としての経験であり、記憶でもある。

頭上に舞うヘリコプターとトンボが対称の位置に定まる瞬間、それは視覚を超えた景色となる。

絵画のイリュージョンを信じ、実体験をも凌駕せんと試みる平面の世界はもはや、言葉をしばし失う驚きと敬虔なる空間への入口として機能する。



「interlude 3」
2009年 / 1350mm×1350mm / oil,beeswax on hemp,panel


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 「音像」という言葉があるが、私達の耳に届く音(あるいは人間の耳では聴こえぬ音も)は全て固有の波長を持ち、それはコンピュータの解析によって視覚的に認識することが出来る。聴覚に限らず、味覚や嗅覚、触覚も電気信号として分析することによって、それぞれの「像」を持つことを確認できるであろう。そしてそれらを電気信号で再現しようとした場合、私達の感覚器官は人工的な刺激により、まるで実際の体験のごとく感受するという。いずれ世の中は脳に直接プラグを差し込み、バーチャルの体験を知ることになるのだろうか。だが翻って私達の視覚に戻ると、実は電気信号だけでは説明も理解もできない数多の不可解な現象が、絵画というイリュージョン(幻影、錯覚)には潜んでいることを忘れてはならない。それはキャンバスに絵具を付着させた物質という質感だけでも、網膜を通じて脳に届けられる視覚的信号(見えているものとしての)だけでも語り尽くせない、絵画だけが持つ「もう一つの景色」に依るものであると、認めざるを得ないだろう。

 そう、絵画は体験であると同時に記憶であり、単一の事象でありながら複数の解釈の余地を保有する、複雑な存在である。その機能を作家が自覚すればするほど、事態は一層複雑になる。私達鑑賞者は目の前に描かれた地平を見て、ほぼ疑いも無く奥行きを想像し、世界の広がりを連想する。その空中にヘリコプターを見つければ、その実際のスケールを想起し、そこから逆算的に画面の中の世界を計測する。だがもしそこに、ヘリコプターと対称の位置に、それと同じ大きさで「トンボ」らしきものを見つけたとき・・・。世界は一気に変貌を遂げることになる。

 西川茂の代名詞となりつつある「ヘリとトンボ」のシリーズは、ほぼ全ての画面にヘリコプターとトンボが小さく描かれており、それを知ってか知らずか、花畑や雲の広がる光景は圧倒的な広がりを見せ、地平線や水平線は遥か彼方にこの世の果てを示すのみである。絶望的なまでに美しく、寂しい光景の広がりは、それ故に私達の記憶の中から同種の経験を探し出させようと掻き乱すのだが、おそらくは見つからない。しかし未知の世界かと問われれば、そう確信めいて言う事も出来ない。土地や時間を特定しない世界は静かに広がっているのみで、私達を誘っているわけでも、拒絶しているわけでもない。ただそこに在る。それだけの事実(画面の上での)によって私達は動揺し、所在なく感じ、しばし言葉を奪われる。その沈黙を切り裂くのはおそらく、頭上を舞うヘリコプターの爆音と、同時にささやかに羽ばたくトンボの羽音である。そのいずれかに気を取られれば必然的にもう片方を認識しづらい関係にありながら、両者は絶妙な均衡を保ってその瞬間を維持している。いや、その二つだけでなく、景色も含めた三つの要素の関係は、究極のトライアングルの上に成立し、全ての気配や緊張を一瞬に閉じ込めたかのような絶対的な図式を構成している。

 作家は自己の圧倒的体験を基に絵を描くが、私達がその作品から体験するのは、もはや作家の経験したそれとは別のものであり、絵画というイリュージョンの産物である。にもかかわらず、おそらく本質的に西川茂の意図は鑑賞者に共有されるだろう。なぜなら優れた絵画は現実に起こる事象と同等の驚きや感情の動きを人間に与え、視覚的な体験としてだけでなく、世界を知るという創造的な出来事をも可能にするだろうから。西川茂の提示する絵画は物質としての存在を超えて、起こり得る/起こったはずの経験を私達の脳に訴えかけている。

 彼が昨年の夏にneutron tokyoで発表して以来評価の高かった、地面を見据えた構図の連作(ヘリコプターとトンボの影が映るもの)も、シリーズとして成熟を重ね、今回の個展のハイライトとも言えるものへと発展してきた。彼の描くモチーフや構図、景色のバリエーションは他の作家に比べて決して多くは無いが、その世界観は既に確立されていると言って良い。彼はひたすらに、自身をも再び揺るがす神の領域を、現出させようと企んでいる。