neutron Gallery - 岩崎なな 展 - 『SPACEAFFAIR』 
2007/10/30Tue - 11/11Sun gallery neutron kyoto


生命を形作り、やがては昇天する「つぶ」によって生かされている生 き物とその世界。独自の死生観が広がる神秘的な世界を、絵画・立体・映像・インスタ レーションを通じて表現。東京を中心に活動し、「アートカクテル」など注目の展覧会での活躍 も目覚ましい作家が、2年ぶりにニュートロンでの個展を開催。




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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 家族の一員としてのペットは、現代人にとって癒しのパートナーであるとか、少子化社会における仮想的な子供としての存在だとか言われるが、別に現代に限らず歴史を紐解けば犬や馬は実用性を伴って人間と生活を共にしてきたではないか。牛、豚、羊を始めとする家畜は大切に肥やされて、やがては食卓にのぼった。農耕民族、狩猟民族、さらには遊牧民族いずれの生活にも、パートナーとしての動物達は「あたりまえに」存在し、それらが無い生活こそ、「不自然」な事であっただろう。
 しかし現代に住む私たちにとって動物とは檻の中に居て然るべきものであり、鹿や猿が町中で一度目撃されれば大騒ぎである。彼らはあたりまえに歩いているだけだとしても。動物達は人間の築き上げた文明の中においては完全にコントロールされるべきと考えられており、一部の「愛玩動物」が過剰なまでに人間の生活に寄り添い、消費生活の只中で生涯を終える。しかしそんな私たちと動物達の関係においても、やはり「生きる」「死ぬ」という問題だけは避けて通れず、むしろ身近な動物(家族)の死は、両者の歴史上もっとも重大な問題にまで発展しているかも知れない。「ペットロス症候群」とはまさにこの重大な喪失感を伴う精神状態を指し、現代病の代表的なものでもある。
 岩崎もこのような大きな喪失を味わい、さらには実祖母の死を重ね、今に至るまで表現・制作の根本となる死生観を手に入れる。「つぶ」と呼ばれる単位が集まることによって生命が形づくられており、その生命体が死ぬ際には、「つぶ」達はその表皮から離れ、天空に昇り、また別の生命を形作るべく、降りてくるのだと言う。その観念には人間と他動物の別は無く、仏教における輪廻転生にも通じる考え方である。岩崎は概念を美術作品として提示することによって、実際に「つぶ」や「つぶの詰まった生き物」を誕生させ、平面・立体・映像及びインスタレーションを通じて私たちに切々と訴えかけてくるのだが、それはどこか敬虔な宗教信者の営みにも近いと見えるし、古来から日本に限らず世界の宗教美術が当時の美術工芸の最先端であったことを思えば、人間の生活と美術を繋げる場面(と言うより、人間にとって必要な美術)とは、まさに洋の東西を問わず、生命の誕生と喪失の瞬間に寄り添うものだと実感出来るのではないだろうか。
 現代美術においては、特に視覚効果を問題として、平面の領域において「ピクセル」や「ドット」といった概念から、古くは点描の技法の時代まで、美術において「つぶ」は決して新しいものとは言えない。しかし、それらが平面あるいは視覚認識における手がかりであって、手触りは無かったのに対し、岩崎の「つぶ」は質量と感触を伴うものである。展示会場においては苔や小石などを敷き詰め、映像イメージを投影し、つぶの詰まった生き物が何かを探し求めるように存在し、鑑賞者は突如として現れたその空間に戸惑いつつも、言葉を必要としないその死生観の広がりを受け止める。必ずしも閉ざされたエキシビション・スペースに限らず、むしろカフェや建造物に隣接する格好での展示の方が、より人間の営みに近いという意味で効果的に映る。そもそも生命の誕生と喪失は生活の中にこそあるのだから、美術という形態を介して身近に存在することは、表現者として志す方向性は正しいと言えよう。
 マンションや団地で育った子供達はペットが飼えないばかりか、四季折々に目にするはずの虫達の音色やはかない命を知らないと言う。幼少の頃に身内の死に接しなければ、「死ぬ」とはどういうことかも分からないまま、ある者は不幸にもそれを確かめようとして現実 / 仮想の別無しに人を傷つけたりもする。身近に動物が存在する事が、豊潤で健康的な死生観を養う素地になり得るのは、言うまでも無いだろう。