neutron Gallery - 冬 耳 展 - 『 flesh cluster 』 
2007/8/7Tue - 19Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家 冬 耳 (絵画)

夏の夜空に打ち上がる花火の様に、華々しく豪快に描かれる色彩の競演。 圧倒的な宇宙のスケールから、私達人間の体内のミクロの細胞まで、エネルギーとフォルムを追求する作家の旅は自在に変化する。 時に官能的に、時に植物の様に穏やかに、イメージは鑑賞者を包み込む。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 なぜ「冬耳」と自称しているのか、詳しくは聞いていない。しかし彼の絵を見ると、どちらかと言えば「春鼻」とか「夏眼」の方が合いそうな気がする。冬という言葉から連想されるうら侘びしさや寒さはあまり感じさせないし、耳というそれに近い静けさもまた同じ。しかしだからと言って、彼の作品世界を季節感だけで定義する、あるいはそもそも言葉のイメージに束縛させるべきではない。なぜなら彼が描く画面には、人間が見い出すべき様々な根源的要素が凝縮されているのだから。
  まず、このような怒濤の色彩、描画は1960年台から70年台にかけてのサイケデリックまたはフラワームーブメントと言われたスタイルを彷佛とさせるが、当時のそれらは概ねベトナム戦争をはじめとする閉息した社会の空気を、音楽やドラッグの力を借りて「ハッピー」で「ピース」なものに変えていこうとゆう、厭世のスローガンの旗印であった。代表的なウッドストックやヒッピーファッションと照らし合わせれば想起され易い。しかし、冬耳は当然、それらを自身では体験していない。それに彼はヒッピーでもないし、ドラッグの幻覚作用を好んで筆を取っている輩でもない。片や現代美術の潮流において「スーパーフラット」と呼ばれる平面の解釈・方法論が村上隆以降に隆盛を誇ったが、それを横目に見遣りつつ、やはり彼の絵は何にも属そうとしない存在感がある。
  上記の、新旧それぞれのムーブメントは時代を象徴するサブカルチャーとアートの邂逅によって生まれたものだが、冬耳の絵画は何か特定のメディアやカルチャーを触媒として描かれては無いだろう。もっと根源的に、一人の人間(ヒューマン)として生きることにおける、シンプルで切実な問いかけ、欲求、若さ故のエネルギーの爆発が生んだものであり、それは極めて私的(パーソナル)なものである。しかし同時に、そのあまりにも純粋な問いかけの鉾先は、人間という生き物全てに該当する普遍性を持つため、私達にとって彼の苦悶とエクスタシーは「他人事」では無いのである。
  年に一度程度の個展、発表を積み重ねて来た彼は、自身の手に余ると思われた爆発力を自在にコントロールできる領域に近づいている。大画面に拡散する色彩と重なりあうモチーフは緻密なデザインの基に構築され、破綻することなく、暴発寸前の緊張感を漲らせている。時に体内のミクロの世界を描き、時に外宇宙の深遠な広がりを見せ、さりとて全ては「人間」の内に、あるいは外に接しているのだと訴えかける。原色がこれほど入り交じると、逆に鑑賞者は色彩の問題にはあまり捕らわれなくなり、絵画における奥行きとかイリュージョンといったものも、おそらくは打ち消されてしまうだろう。突き詰めれば、子宮のように見えたり男性器のように見えたりするモチーフも、色と塗りと線のうねりの結果であり、表層でしかない。そしてそれが全てでもある。だが、この激しい視覚信号は私達の認識を超えた次元で、脳に、そして体に反応を促している。まるで宇宙からのエネルギーをもっと取り込め、脳内を活性化しろとでも言うかの様に。
  異能の才であることは間違い無いが、果たしてどれほどの時代性と普遍性を備えたものなのか。好き嫌いはあろうが、せっかくの御盆の季節、まずは大きな打ち上げ花火を見るかの様に楽しんで頂きたい。