neutron Gallery - 石川 文子 展 - 『 光ノ窓 』
2006/6/26 Mon - 7/9 Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家 石川文子  (写真)

光の粒子がレンズを通じてフィルムに焼きつけられ、印画紙に記録される。シンプルな原理で再び蘇る、記憶の中の光景は忘れられない景色となる。京都・大阪を中心に精力的な発表を続ける写真家がニュートロン初登場。
これに合わせて、自費出版ポストカードブックも登場。霞がかった様な独特の画面は、見る者を惹き付けてやまない。



2000年 3回生制作展 (京都市美術館) 「チャネリング」


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 写真とは本来、レンズを光が屈折しながら通ることによりフィルムに光景が焼きつけられることから生まれる一瞬の投影である。従って光が存在しなければフィルムに焼きつけられるべき景色も存在しない事になり、全くの暗闇では写真は撮れない。「一瞬の」と書いたが、例えば夜空を観測するような場合はシャッタースピードを長めに調整して30分とか1時間とかの長時間露光を行うが、さりとてそれを「瞬間」と表現するのもためらうべきでは無いだろう。所詮、私達が永遠のように感じている時間の流れにおいてはシャッターが開いている時間等僅かなものであり、毎日何本もフィルムを費やす熱心なカメラマンですらカメラを構えている時間こそ圧倒的に多いものであるから。しかし映し出された写真像には不思議にも永遠の様に止まった時間が流れる。撮った瞬間から過去の「一瞬」であり続けるにも関わらず、ある時は時代や風俗を貴重に留めるばかりか人間・地球上の何か大事な一瞬を代表するかのごとく見えてしまうことがある。それはワールドカップや劇的なクーデターのような歴史的イベントで無かったとしても、市井の人々の息遣いや愛しあうカップルの仲睦まじい姿ですら、そうさせる。写真とは物事の本質を超えて時に物を語ることがあり、あるいは逆に写真とはその映した事象以外の様々な憶測や想像を引き起こすものでもある。そんな「写真」というものが、今、果たして美術の世界において現在進行形のメディアで在り続けるための戦いを強いられている。ビデオアートが代表する映像に完全にお株を奪われてしまった感のある昨今、写真という技法を用いる作家は多いものの、「写真作家」(≒写真家)のステレオタイプが写真界において蔓延し過ぎたおかげか、時代を代表する美術家としての存在(である写真作家)は極めて少ないように思える。絵画や彫刻といった古いメディアが未だに可能性を掘り下げられて健在であることを考えると、いささか写真のそれは物足りなく映る。
 そんな周囲を知ってか知らずか、ここに紹介する石川文子が提示する全くの「写真」は極めてシンプルに、ストレートに私達に何かを訴えかけようとする。彼女は技法として写真を用いているのではなく、「写真作家」という自己の存在を既に呑み込んでいる。従って現代アートの必要とする難解なテキストや事前に周到に用意されるコンセプト等は無いかあるいは有ってもまっ先に公にされることはない。あくまで印画紙に焼きつけられた写真としての出来事を見せたいだけであり、その一点においてのみ、評価されるべきものなのだ。彼女は大阪・京都の様々なクリエーター達(詩人やパフォーマー、演劇関係者やミュージシャン)との交流も多く、イベントにおいてスライド上映という手法での作品発表も多い。しかしそれはまた本質的にはプリントされた写真と極めて近い出来事なのである。なぜならプロジェクターからは必ず「光」が投影され、スクリーンという仮説の印画紙に映し出される光景は永遠と思われる写真プリント(実際には保存状態により色彩や濃淡は変化する)と時間の流れを違えるだけなのである。
 石川の写真は霞がかった様な質感を特徴とし、モチーフは花、水、道、空・・・といった一般的に扱われ易いものばかりであるのだがいづれも彼女の独特の情感を兼ね備えている。フィルターをかけたような、粒子がひと粒ひと粒語りかけてくるような光景に、それがいつ・どこの・何であるかを知る事もなく、私達は思わず引き込まれる。知識としての情報を必要とせず、光の粒として削ぎ落とされて存在した粒子達がレンズに吸い込まれ、もう一度像を結んだかのような写真。印象として焼きつけられたそれらはただ単に光景で在り続けるが、まるで摘みたての果実のごとく、瑞々しく、光のダンスを踊り続けているかの様だ。
 当たり前の様に光によって見せられる光景が、何と美しく、新鮮なのだろうか。石川の見せる写真とは、はからずも、今の時代の必要とする光景であるように思えてならない。