neutron Gallery - 安藤 雅視 展 - 『 sight 』 
2006/3/13 Mon - 26 Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家 安藤 雅視(絵画)

美術とは言い換えれば、視覚との格闘であった。  
今の時代にもその問題意識を継承する安藤は、手作業で緻密に描かれる線とアナログな手法の繰り返しにより、驚くべき視覚魔術を再現する。今回の個展はシリーズ「sight」の最新作を含む、京都発表となる。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 古い歴史を紐解くまでも無く、安藤雅視のステートメントを読まずとも、「美術」とはおおよそ「視覚」の問題提起であったと言ってしまうことは許されるであろう。いや美術に限らず、人間の有する五感のうちで最も普段から頼ってしまているのは何よりも「視覚」である。我々の眼は色彩と奥行きと光の加減を感知することに長けているが、それらの機能はそのまま疑いのターゲットにもなってきたのである。目の感知した「情報」は信号となって脳に届き、そこであるビジョン(像)を結ぶ。それこそが私達が「見ている」事象であり、もし目という器官や脳神経に問題があれば、本来絶対であるはずの景色は、受取手によっては相対像として見えることになる。例えば、私は隔世遺伝とされる「色弱異常」の診断を子供の頃に受けたが、皆が認識できる微妙な色合いの識別が苦手とされる。しかし私にとっては私が見えている(と感じている)色彩こそが全てであり、粒状の色見本を見せられてそこに数字が判別できなくとも、生きて行く上で困ったりはしない。あるいは視覚を完全に奪われた人は(その失明の時期によるが)風景や色そのものを脳内の自由なイメージによって作ることが出来る一方、いわゆる情報としての信号は受けることが出来ない。こうして、実は視覚とは甚だ不公平で不完全なものだと言わざるを得ない。犬は色彩を区別できないと言う。つまり白黒の世界に生きているのだ。美術において「色」が難しいのは、そういった「絶対性の無さ」からくる由縁だろうか。
 もちろん、問題は色彩だけに留まらない。安藤雅視はこの「sight」のシリーズにおいて、様々な実験的手法を用いてその問題を問うて来た。具象画の画面上にはコラージュされたかのように不完全な像しか描かれず、時として前後関係や時間の識別を困難にさせる。ポートレートと思しき絵画には実は作者の意図的な排除によって不完全な情報しか与えられず、私達は見ようとするものの存在を探り、手がかりを失う。しかし描かれている事象は「見えて」いて、私達の視覚をその数少ないモチーフに集めようと誘惑する。それに誘われたところで何かを見い出すことは難しいのだが。
 あるいは逆に、本来の程度を超えた過剰な情報によって埋め尽くされた画面を見せる。私達はその膨大で邪魔な情報に阻まれ、辿り着きたいビジョンにたどり着けない。しかしその目標が果して本当に正しいかどうかも、怪しいのだが。びっしりと埋め尽くされた線はある一定の法則に基づいて再現された本来像の確かな名残りであり、ある意味では正しいビジョンとも言える。私達が困惑する最大の理由は、見せられているものが作者の手によって明らかに操作されている情報だと信じて止まないからだ。
 一見して不毛な行為に感じられなくもないが、さりとてそれらの存在を無視することも出来ない。私達は多かれ少なかれ操作された情報を見て生きていると薄々感じているし、美術とは既製の概念や事物を疑ってかかることから始まることを知っているからだ。だからこそ、容易に答を得ることが出来なくても、安藤の作品を食い入るように「見る」しか無いのである。これこそが視覚に頼る人間の性なのだろうか。
 安藤の作品は視覚の問題提起だけで無く、技術面でも目を見張るものがある。一見してコンピュータで作成されたかのように見える(見てしまう)線描は実は全て手描きのものであり、写真からコピー、トレースといった作業工程は今の時代に珍しいくらいアナログなものなのだ。私はその根気と繊細な描写力に感嘆を禁じ得ない。やはり視覚は喜びであり、人生の驚きでもある。