neutron Gallery - 遠藤 裕美子 展 - 『 AIR in FLAT 』 
2006/2/13 Mon - 26 Sun gallery neutron kyoto


視覚表現を基本としながらも、デザインやインテリアの領域にも軽々とまたがり自由奔放なスタイルを確立する異色の作家。世の中で「異端」とされるものへの愛着、「異端」を生む時代へのメッセージ。 空間構成から画面内の印象的な出来事まで、全てはトリックの様に操られる。 注目の初個展!!





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 数々のグループ展や企画に参加しながら、意外にも今回が初めての個展となる遠藤裕美子。その活動は既に多岐に及ぶため、彼女の表現の本質を知るには多少の時間を要する。ビジュアル表現を軸にしながらも自身によるパフォーマンスやデザインを取り込み、平面的でありながら立体に領域を拡大する。2001年〜2004年にかけての原田リョータとのコラボレートではメイクや画像処理を担当してモデル(原田)が自在に変貌を遂げるのに一役買った。遠藤は今の世の中において最もタイムリーな表現を可能にする裏方的技術を持つ、特異な作家であると言えよう。
 「変身」と「変態」。この2つのキーワードが遠藤の行う表現には必ず関わる。変身とは今までのあり方を脱するべく、ある一時期に形態を作り替えること。変態とは、生物の進化の過程で必要な能力を手に入れ、形態を変化させていくこと。どちらも変化には変わり無いが、現代において「変身願望」は病的なまでに語られるが「変態」はゆっくりとしたスピードのため、見のがされがちである。しかし両者が揃ってこそ、人間及びそれを取り巻く社会の在り方を俯瞰することが出来る。性差や肌の色、さらには奇形といった身体的問題を扱う初期においては、ネガティブになりがちな主題をアトラクティブに昇華すべく、圧倒的な存在感のビジュアルワークを通じて自ら演じ切った。昨今、写真表現も「変身」を主題に扱われる事が多くはなったが、巷に溢れるそれらを超えるインパクトをもって遠藤の変身はスタートする。彼女自身、「アウトサイダー」と呼ばれる存在に興味を持ち、社会の中において適合しにくいとされる様々な異端を知り、いつの日か自らが「異端」と指さされるかも知れない現代の息苦しい状況を鋭く突く。私達が「正常」あるいは「健常」と無意識に感じるそれらは、単に多数を包含する1つのモデルに過ぎないとしても、異質な形態や行動は殊更に衆目の的と成る。いや、そればかりか「見せ物小屋」の無くなった現代ではそれすらも感じられにくく、言わば「黙殺」されてしまっているかの様だ。たとえば同性愛が特異と騒がれるような時代が過ぎても、人間は常に何か異端視する標的を生まずには居られない。表現者も社会においては残念ながら不適合、あるいは不適切の憂き目を見る事も多い。人と違う事をするのは多大な犠牲と勇気を必要とし、マイノリティーにおいての賞賛の声は多くの人には届かない。そういった存在価値を掬い上げ、作品という形で美的に表現することが遠藤の仕事だと言える。その意義は余りにも大きく、領域は美術の幅を大きく超えるだろう。
 それを実現するための手段こそが、「変身」と「変態」である。自らが肌を晒して変身して見せる。行動に起こして見せる。モデルからメイク、撮影、処理まで手掛けるマルチな面は、人々の生活レベルに浸透すべく新たなモノを作り出す。まるで本能が目覚めたかの様に子供を従え、羽根を拡げる「本」や自らものを言わんとするレター。一見してかわいらしいそれらの存在はしかし、遠藤の持ち続ける異端への思いから生まれる。増殖、分裂、棲息、進化しようとするモノ達。これらを「作品」として留めていては、本質にたどり着けないだろう。なぜなら遠藤の提示する概念はこのグローバルでありながら均質な価値観を持たされそうになる社会において、常に異端であり扇動者(先導者)であるべきものだから。古臭い美術のカテゴリーに仕舞っておいては、見せ物にもならない。
 今回の個展では、ある風景における違和感、その中の存在を切り取りつつ、会場構成においても視覚効果を狙う。ビジュアルワークの新機軸とも言える試みの先に、新たなメッセージが見えてくるはずだ。