neutron Gallery - 石井 貴子 展 『 透幻境 〜とうげんきょう〜 』 - 
2005/8/15 Mon - 28 Sun gallery neutron kyoto


2003年8月、祖父の生きた時代を掛け軸型アニメーションに蘇らせた石井貴子 が、およそ2年ぶりにニュートロンで映像インスタレーションを行う。
窓枠を有する映像装置から見せるのは、果して人類の滅亡の過程か単なるおとぎ話 か・・・。「窓」というフィルター、さらにギャラリーのガラスによっても遮られる 映像の見えない部分とは。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 石井貴子の個人名義での発表(いわゆる個展)は、一昨年の8月以来となるから実に約2年ぶりということになる。その発表は「皺道画」という掛け軸を模した装置を用いた映像インスタレーションであったのだが、縦スクロールの変型投影を実現するために会場の半分程度を装置が占め、さながら幻灯機のようであった事は記憶に新しい。彼女の活動のわりには個展と呼べるものは後にも先にもこの1回しかないのも不思議だが、縁あって再びその機会が巡ってきたことはギャラリーとしても喜ばしい。そして今回の発表もまた、前回と同様に会場のおよそ半分を装置が占有して行われる映像インスタレーションである。この「透幻鏡」と名付けられた作品は、京都精華大学大学院修了制作として3月に京都市美術館において発表されたものではあるが、おそらく雑多な展示がひしめく会場にて集中して鑑賞されたとは言い難く、作品の本質を再現する意味でも今回の発表の意義は大きい。
 いわゆる映像の「ソフト」としての制作だけでなく、石井貴子の映像にまつわる仕事は非常に多岐に渡る。音楽との相性はとても良く、音楽イベントでの映像演出や音楽と映像のコラボレーションなども場数を踏んでいる。かたや「映像」を見せる手法として数多くの実験的装置をあみ出し、「映像を見せる」ことに対する深い考察は常に注目に値する。結果として映像単体あるいはインスタレーションも含めてグループ展への推薦や参加は枚挙に暇がない。映像を扱うクリエーターの中でも、極めて多才でマネージメント能力に長けていると言えるだろう。そして他者とのコラボレーションの無い「個展」は石井貴子にとって、自身の発案をいかんなく発揮するための絶好の機会ともなるはずだ。
 とはいえ、今度の会場は勝手が違う。カフェの客席をガラス越しに見るギャラリースペースに暗幕を引いてしまっては会場本来の醍醐味が失われる。もちろんそんな事はせず、あくまで装置の発光を妨げないように画面はギャラリー入口を向き、カフェからは装置の側面だけカーテンで隠され、斜から映像が見える。しかしこの「透幻鏡」自体が既に「窓枠」を有しており、作品のコンセプトの中に明記されているように、窓というメディアを通してしか作品が見られないようになっている。これはもちろん、映像そのもの、あるいはそれを取り巻く環境の危うさを示すとともに、この会場においてはさらにギャラリーの窓ガラスを通じて二重のフィルターがかけられる事になる。切り絵のごとく装飾が施された作品装置の「窓枠」は、時として映像を邪魔し、ある出来事は完全にその裏に隠される。しかしここで気付くべきなのは、そもそも映像自体がテレビカメラと言う枠の中でだけ捉えられ、それを映し出すテレビモニターの中で再現されているだけのものだと言う事だ。不自由な鑑賞は逆説的に映像の本来の不確かさや一部性をあぶり出し、私達を困惑させる。そしてその画面の中で展開されるのは、石井の特徴的なスクロールをふんだんに用いて繰り広げられる、とある世界の出来事だ。決してリアリズムを追求した描写でないのに、その光景には空恐ろしさと妙な親近感が湧く。ここに発揮される映像作家としての力量はこの作品のメッセージを強く印象づけていることは間違いない。私達が目撃するのは、まるで紙芝居のようなファンタジックな舞台で語られる「世界のほんの一部」なのだ。