neutron Gallery - 山本 知佐 展 - 
2005/5/23 Mon - 29 Sun 文椿ビルヂング1階特設ギャラリー
ニュートロンアーティスト登録作家  山本知佐(平面)

日常の見慣れた光景はふとした瞬間に信号が変化し、脳内で変調を来す。ビビッドな色彩とディフォルメされた構図によって提示される原風景は脳内に鮮やかな印象を残す。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 人の記憶とは実に頼りにならないもので、ある人物の風貌すら10人居れば10通りの回答が出るだろうし、風景や事象となればその情報の正確さは極めて疑わしい。しかし私たちはその曖昧でいい加減な記憶をもって「知っている」と言い、必要に際してはかなり疑問の残る印象を人に教えたりするものだ。中でも色彩の印象は千差万別である。私のように隔世遺伝による色弱異常という微妙なピントのズレ方も有れば、色盲という大きな誤差を抱える人も居る。犬や多くの動物は白黒にしか見えないと言うし、人間程色彩に頼っている生き物は他に居ないのではないだろうか。しかし生物の中には色とりどりに私たちを楽しませるものも多く、地球上の美しさは色彩を外しては語れない。
 山本知佐もそんな色彩という要素に強く見入られて制作する一人であるのだが、その色は実際とは大きく異なり、極端に強調もしくは色調を変化させられ、見る者を撹乱すらさせる。しかし描かれているのは紛れもなく普段私たちがよく目にする光景であり、それ自体はなんの変哲も無い事象なのである。なぜこの作家はこのような色彩で私たちを幻惑するのだろうか?・・・いや、幻惑されているのは作家である山本知佐本人であるのかも知れない。言う間でもないが山本本人の目にこのような色彩が映っている事は無く、意図的にこのように描いているのである。では、脳内のどの辺りで色調は変化させられているのであろうか?・・・おそらく「記憶」や「印象」を司る部分ではないだろうか。スナップ写真を基に描こうとも、脳裏に焼き付いた印象、ハッと目を引かれた色、そしてそれによって周囲が極彩色に見えるようになる変化が画面に忠実に表現される。決して普段は意味を持たない何気ない風景が、あるきっかけで急激に突出し、頭の片隅から離れない。そんな時、およそ周囲の風景の色彩等覚えていなくても、感受した印象は電気信号として確実にメモリーされる。もはやそれはフォトショップによって補正、加工される画像データと一緒であり、信頼性よりもさらなるインパクトや様々な解釈が優先され、このように成る。
 山本知佐のドローイングは筆数が少なく、水性の滲みを活かしたさらりとした風景描写の粋に有る。しかしいざキャンバスに筆を落とす瞬間、脳内には完全に異次元の光景としてのそれが存在し、もはやその誘いを断ることは出来ない。「夢」と「現実」という単純な図式というよりも、その狭間にある瞬間、「白昼夢」のような場面。作家はしかも普段の生活の多くをそんな隙間に生きているのだとすれば、その視覚は過剰な情報よりも自分にとっての心地よい(あるいは刺激的な)印象=信号を受け取ることに特化されているかの様だ。いや、私たちの受け取る様々な信号は意識次第で幾らでも変化する。耳を済ませば小さな音でも察知できるし、注意深く味わえばワインの格付けも多少は可能だろう。要するに何に着目するか、あるいはしないかの問題なのだとすればここに描かれる光景があながち「補正」あるいは「加工」された光景と言うのも正確な表現では無くなるかも知れない。
 アクリル、油彩を用い、さらに近作においてはマチエールの変化やメディウムによる半透明の描画まで表れだし、その色域は広がる一方である。そしてこの光景から何を受け取るかもまた、私たちの自由である。