neutron Gallery - 高橋 良 展 - 
2005/1/25Tue - 30Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

墨の持つ力強さ、艶かしさ、匂い、そして色。若くして墨のあらゆる可能性を引き出し、新しい水墨画の魅力を発揮する新鋭。屏風作品や大きな画面での展開力は、鑑賞者をエロチックな「生と死」の世界に惹 き込んで止まない。年始に相応しい日本古来の表現と「今」からの可能性。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 高橋良は水墨画をして「ストリート」の息吹を感じさせ、墨のもつ様々な魅力を引き出すことに関して、若くして成功しているのではないか。しかしそれはまだ遠い旅路のほんの始まりに過ぎない。私が今まで目にしてきた作品を見ても、それは全てにおいて変化し、ことあるごとに違った側面を覗かせる。彼が器用なセンスの持ち主であるが為に、墨を用いた様々なタイプの絵をいとも容易く習得しているように見える。もちろん、「そう見える」だけであって、彼の筆が描こうとするのはまだ完全なる説得力を持ってはいない。ただ、彼の絵の不思議な妖気だけは、習練すれば身につくものでもなく、誰しもに有るものでも無い。  女性を描くことがすなわちエロスを表現することに繋がる、という考えがあるとすれば、半分当たりで半分はハズレだ。エロスとは表面上に「描く」ものではなく、「出る」ものだと思う。すなわち高橋良自身のエロスが果たしてどれくらいのエネルギーを放ち、女性というモチーフを通じて表現されるか、の問題である。女性だけではない。樹木でも龍でも赤子でも男性でも、そういったエロスをはじめとする内からのドロドロした感情や欲望、パッションといったものは、必ず絵に現れる。もし彼が女性を描こうとしてそこにエロスを求めた場合、それが成功するとは限らない。無論、裸婦である必要も無い。彼がエロスと称するものには、実は根源的な生と死の魅力が詰まっている。だからこそ彼が提示する作品の形質がどのように変化しようとも、そこに危険な魅力があることを期待する気持ちは全く変わらない。彼にはもっともっと邪悪で陰湿で罪深くありながら、天女のように真っ白で純潔な女性を描いてほしいと思う。天国でありながら同時に地獄であるような光景・・・。それは今生きているこの時代のことだとも言えまいか・・・?
 水墨画という古くからの技法を現代に活き活きと用い、なお若き激情を散らすだけでは物足りない。そこに生きるか死ぬかの瀬戸際を感じさせ、この世の全ての罪悪を浄化する崇高なまでの拠り所としての絵を描いてほしい。彼が単に「スタイル」や時代のブームで終わらない為には、同じ墨を扱う者として書家のようなストイックさと、表現者としてあらゆる形態の作家を始めとする人間と交わっていかねばなるまい。そして自己に対する厳しいアティテュードを確立し、他者をして信仰たらしめん程の墨絵を生み出して欲しい。  高橋良の描く人物像に、一つ気になることがある。それはこういった絵において本来なら大きな影響力を発するはずの「眼」が、「白眼」の状態であることである。それにより人物はまるで魂を抜かれた「デク」のように見え、あるいは死んでいる様にも見える。それが今のところの本意なのだとして、「白眼」のやりどころの無い浮遊する緊張感も面白いが、私はいずれここに力強い「黒目」が点されることを信じている。それはフワフワとした状態に確固たる指針を示し、進むべき路を記す行為でもあるからだ。  今回の個展において彼は、「花」に重要な役割を与える。もちろん、短き命の花は生と死とエロスを端的に表すのであるが、彼は会場にそれらを「川」のように敷き詰め、私達にまず、三途の川を飛び越えて来いと言わんばかりに空間を構成するのだと言う。彼の地の川は私達の日常とさほど離れていない所に在る。いや、今ここに墨を浸した筆を走らすだけで、あの世とこの世の境界線は、立ち現れる。