neutron Gallery - ムラカミイズミ 展 『ムラカミイズミ絵画展』 - 
2004/9/7Tue - 12Sun 京都新京極 neutron 5F gallery

日記のような徒然なるストーリーを綴る絵画。人と人との繋がりや生活の中の様々な出来事を織り交ぜつつ、繰り返し登場する小道具や大道具が印象的に普遍性を与える。淡々と過ぎ去る毎日に、必ず起きるちょっとしか「何か」が描かれ、私たちの分身は全てを受け入れるようにゆらゆらと存在するのです・・・。




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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  朝起きて、背伸びして、歯を磨いて、御飯を食べて、外に出て、歩いて、遊んで、仕事して、勉強して、会話して、笑って、泣いて、怒って、考えて、読んで、書いて、動いて、止まって、帰って寝て。当たり前の日常の中の当たり前の出来事たち、そして帽子やカバン、ベッド、鉢植え、ステッキ、扉や窓といった日常的な小道具・大道具。ムラカミが描く絵に表れるものは何一つ、決して難しいものは含まれない。にもかかわらず彼女の絵画は特徴的であり、一目でそれと分る印象を放っている。一つは人物描写(キャラクター)のせいでもあろうが、それとて確かにひょろひょろと頼り無気に見えてはいるものの、目を凝らせばすんなりと受け入れることが出来る。
  ではムラカミ絵画とは何なのだろうか。まず第一に、それぞれの場面として描かれているのはファンタジーではなく日常の出来事(あるいはその延長としての出来事や回想であり、空想)である。何か特別な風に描かれてはいても、誰しもが体験し得るシーンなのであろう。だからこそ、その絵は時として痛みを伴い、感傷的であり、喜びもある。キャラクターの表情や内面を一見して伺い知ることは出来なくとも、その動きや佇まい、あるいは情景そのものから私たちは本質的な感情や心の機微を読み取ることが出来る。あからさまな喜怒哀楽ではない、徒然なる想い。時間軸で言うなら過去のものだけとは言えないだろう。時として現在であり未来にも成り得るのは、無駄の無い画面の最小限の情報が普遍的で、象徴的なせいでもある。例えば人と人とが手を繋ぎあったり、あるいは何かへその緒や赤い糸のようなもので繋がったりしている。ムラカミ絵画の登場人物は、「ひとり」しか描かれていなくても、複数の登場人物が描かれていても、等しくその人の「存在」を訴えかけてくる。余分な人物は登場しなく、孤独や繋がりが常に大きく目に飛び込んでくる。察するまでもなく登場人物が作家本人の投影だとすれば、一個人として人間関係や自己の存在との葛藤に悩んだり救われたりする姿そのものが描かれているとも思える。
  背景として(近作では)白い画面が印象的である。一時期は鮮やかな色や背景色も用いていたが、私はどうも白い方が落ち着いて見ることが出来る。なぜなら使われる色の影響力は作家本人が感じるよりもおそらく強く、本来の繊細な描写やナイーブな感情が隠れてしまう恐れもあったと思われる。しかし近作での白い画面は、全く何も描かれていない訳ではなく、例えば生活で知らずと汚れも匂いも染み付いている白壁のような、あくまで自然な生活感と安心感を与えていると感じることが出来る。言わば「部屋」そのものを背景が形成していると考えられ、結果として風通しの良い(密閉されていない)「部屋としての空間」を演出している。これがもし、閉ざされた「箱」としての息苦しい部屋だったとしたら、画面の印象も全く違うであろう。例え少しばかりマイナスの感情が漂っていても、画面の四方は開放されて、誰かと「繋がって」いると感じさせる。一人でいても一人では無い、そんな長閑な安堵感が横たわっているからこそ、私たちはのんびりとそれを眺め、楽しむことが出来るのかもしれない。
  少しづつ、少しづつ成長し伝えることが上手くなっていく作家としてのムラカミイズミはこの先も、マイペースで日々の生活に根ざした制作を続けていくことだろう。いや、そうあって欲しい。なぜなら日記は三日坊主では意味が無いし、書き続けた日記は半生記としても一代記としても世の中に一つの壮大なストーリーと成り得るからだ。そんな遠い未来の話はさておき、最近のムラカミさんの御機嫌はいかがかな?と思いつつ、絵を眺めてみるのも悪く無いだろう。