neutron Gallery - 池田 孝友 展 『DRAWING EXHIBITION』 - 
2004/8/3Tue - 8Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

日常のささやかな幸せや、穏やかな優しさを感じさせるドローイング。
線と色彩で印象づけられる独特の画面は、「下書き」を超えた作品性、パターンを用いてのグラフィック性など、見るべきものが多い。
音楽表現も行う作者ならではの「響き」、旋律が漂う画面。
空間を埋める作業と、その果てに見い出される空間の構図。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

  ゲルインクでのドローイング、空間を埋め尽くす行為。どちらもニュートロンでは何だかお馴染みの作風に思われそうであるが、特別に種別を選んでいるわけでは無いので、ここに紹介する池田孝友もあくまで、一作家としてのユニークなアプローチの故に企画に至ることをまず、ご説明しておきたい。なぜそんな説明をわざわざするかと言えば、逆説的に、上記のようなスタイルの表現が時代のキーワードであるかのごとく、私の目に留まるからでもある。平面という限定的な視覚表現において、最も原始的ともいえる「線描」は、実は時代の空気を多分に孕み、いつの世にも印象的な旋律を奏でることが出来るのだろうか。
  池田の制作は、かといって、ドローイングだけでは無い。本来、この行為は一般的に「下書き(ドローイング)」と呼ばれるものでしかなかった。彼は油彩を志しており、そのデッサンとしての歩みから今に至るのである。はじめは鉛筆での下書きだたのだが、ボールペンを持ったところから変わり始め、カラーのゲルインクボールペンは売っていたので使ってみたのだと言う。ここではあえて油彩作品を紹介はしないのだが、なぜなら、今現在彼の発表し得るドローイング作品のモチーフ、視点をいずれも持ったものであり、単に色を塗られてあるかどうかの区別しか感じられないほど、両者の距離は近いからである。言い方を変えればドローイングは「作品」と呼べる迄に緻密に構成されており、極めて細かいパターニング、色の配分、画面のトリミングは既に下書きの域をとっくに超えているのである。もちろん、彼は最近ではドローイング作品を意識して制作している。もはや「下書き」ではなく、「完成品」としてのアプローチである。すると今度は、このゲルインクの前提として、鉛筆を使った「下書き」を用いているのだという。不思議なものだが、繊細で緻密な描写はあくまで「下書き」を必要とするものなのだろうか。とても面白い作業だと感じずにはいられない。
  彼の描きたい光景は、全くをもって特別なものではない。路上、町並み、店、女性のポートレートから猫、花に至るまで、彼の愛おしい目線が届く事象は皆、等しくモチーフとなる。ただし、女性は除いて。彼はやはり慎重な男なのだろう。女性の描き方の変化をとってみても、あきらかに風景での実験を経ての確信犯的な描き方をしている。描かれる女性に対する配慮か、あるいはモチーフとしての「女性」にある種の畏怖を思っているのか・・・。邪推は別にして、本題に戻そう。言わばスナップ的な風景の切り取り作業は、それ自体特別ではない。いや彼の身の回りにあるもの全て、我々の周りにあるものと何が違うと言うのだろう?池田はその当たり前な生活を愛し、描く。その光景・事象に対する思い入れが強いからこそ、自らの印象をもとに色づけする。パターンは色調と視覚効果を生み出す働きをするが、一時、彼はその作業の虜になった。その結果生まれたのは奥行きすら失われるほどの塗り付くした画面であった。極端に空白を埋め尽くす行為と、それに相反する空白を残したい気持ち。これらが時期を追うごとに彼の中で葛藤を起こし、今ではパターンはほとんど見られない、線だけの構成にまで至る。つまり「パターン」による塗りつぶし行為が彼の作品の本質ではない。偶然にもこの企画の前に当たる入谷葉子の制作にも同じような事が言えるのだが、あくまでグラフィックとしての技法、特徴は一過性のものに過ぎない。それに捕われて(あるいはそれに当てはめて)作家と作品を認識しようとするのは、誤りである。池田が今後、あれほどハレーションを起こすまでに用いていた技法を捨てようと、あるいは油絵に戻ろうと、それは全て一貫した視線の先にある行為といえよう。ここで見せるのは、単にその「始まり」に過ぎない。彼がこのようなギャラリーで個展を開くのは、初めてである。ある期間の彼のドローイングの変化とその先にあるもの。それはきっと新鮮で懐かしいものであろう。
  池田はバンド活動を経て、自作の音源も作っている。先日聞かせてもらったのだが、それはまさしく空間と旋律の音響音楽であった。しかし、どこか暖かく、人の匂いがする。彼はそんな男なのだろう。