neutron Gallery - 峯彩呼 展 - 
2004/3/2Tue - 7Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

イラストレーション、墨彩画、立体とそれぞれの表現を用いて独特の世界を現出 させる峯。ニュートロンでの初個展となる今回は、近作のシリーズから墨彩の作品群 と、セメントを使った小立体群による対照的な展示。ミニマルな世界に隠された存在 の裏表。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  複数の分野にまたがって表現を行う作家は今どき珍しくは無いが、峯の場合はその作風と世界観が一見、何の脈略もないように感じられる点で、異彩を放つ。現在彼女は大阪芸術大学に在学中で今春卒業予定であるのだが、既に京都のマロニエでの2度の個展をはじめ、イラスト(絵画)、墨、あるいは立体などその多様なスタイルで多くの展示経験が有る。私もその一部を観賞して来て、結構見慣れてきてはいるつもりだが、いつもその突飛なアイデアとオリジナリティー溢れる世界観に脱帽する。
  今回は、企画展ということもあり、また大学生活を終える一つの節目と言う事も有り、私の意見も多分に組み入れて、二人で展示を考案するに至った。せっかくのアイデアを全部公開してしまうのは勿体ないのだが、彼女自身のコメントに書かれている通り、立体と墨彩の作品それぞれの展示である。これは2つの相反する要素の比較でもあり、一方で峯特有の感覚であるミニマルな統一感をもった世界だとも言える。ここで、彼女の主な3つの制作スタイルについて簡単に述べておきたい。
  まず、一見中国かどこかの秘境を思わせる幽玄な雰囲気を醸し出すイラストレーション(絵画)は、彼女にとって最も肩の力を抜いて遊べる分野かもしれない。印象的な配色、絵巻物だったりハリボテに描かれたりする自由度は他の作風と較べてもおおらかで、親しみ易い。その分、彼女の仕事の中でも軽く扱われがちに思えるのは非常に残念な事でもある。なぜなら、アートを気軽に楽しみたい人、あるいは峯自身にとって、この手段は極めて有効な入口となるからで、今後の展開も含めて多大なる可能性を秘めていると感じるからである。
  次に墨彩(墨絵)であるが、最近はこのスタイルが作家としては一番評価されている様である。私自身も、峯のこの分野における仕事ぶりは丁寧でかなりの完成度を感じている。彼女は「偶然」という言葉を使うが、墨の滲みによって現される画面の気配や構図、コントラストは単なる偶然任せでは終わっていない。その偶然の積み重ねを必然としてアレンジし、構成して仕上げたものが彼女の作品である。いわゆる墨絵と違うのは、彼女自身は対象や風景を描こうとはしておらず、コラージュやリミックスといった現代的手法によって画面を作り出し、提示している。すなわちそれは有機的な現象と自己の世界とを近付けようとする試みであり、墨と言う素材と出会った彼女はまさに水を得た魚のように表現の幅を広げている。墨だけでモノトーンの色使いもあれば、アクリルガッシュや箔によって色が出現したりもする。この部分にも今後の伸び代が有る様に思う。
  最後に立体作品に関しては、正直な所最も理解されにくいのでは無いだろうか。いや、私がそうであった。突然な出来事、突飛な存在とでも言うのだろうか、役に立たない実験器具のような、はたまた拾って来た物で作ったおもちゃのような?奇妙な造形物。だが、この一見ばらばらな3つのスタイル(写真も有るのだが)は、やはり一点に集約することが可能である。すなわちそれは、彼女の視点である。峯が制作の題材とするのは夢物語のようなファンタジーの出来事だけでは無く、実は日々の些細な変化や出来事、「発見」やおどろきがインスピレーションの源となっている。夢と現実の境目が極端で無いのは現代の作家として珍しく無い。むしろそれらが派生して墨や立体の作品となった時、あるいはそれらを同時に見たとき、我々はまずその違和感に戸惑うのだが、やがてゆっくりと気付くことになる。全ては小さなセル(細胞)のような出来事の集合体である。それが集まって成長して一つの面になり、形になる。峯がぼんやりと指し示すのは物事の発端におけるイメージの可能性なのかもしれない。「始まり」はシンプルで、見事に美しい。