neutron Gallery 
- ヤマガミ ユキヒロ 展 『 The DISORDERLY SPACE 』 - 
2004/2/17Tue - 29Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

常に新しくて挑戦的な手法を模索しながら、現代の絵画たる作品を発表 しようとする姿勢は不変。今回は、自身初めてとなる完全な映像表現とテキストの組 み合わせで、雑多な言葉が行き来する空間における自分の居場所を感じさせるインス タレーション。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  2003年はヤマガミユキヒロにとって、まさしく飛躍の年となった。2月、ニュートロンの地下ギャラリーでの企画展において二つの実験的な作品を発表。従来のスライドプロジェクションの平面の存在感はもとより、もう一つのビデオプロジェクションの平面作品(絵画として風景が描かれた平面に、同じ風景の時間の経過を捉えたビデオが投影される)が話題を呼び、一気に注目を集めた。その後、夏に大阪のArt Court Galleryでのグループ展ではビデオプロジェクションタイプの大画面の作品を発表。秋のギャラリーcocoでの個展ではそれに加えてビデオ作品(映像のみの表現)を見せるなど、今までの鬱積したものが一気に解き放たれたかのように、目覚ましい活躍を見せた。
  もともとヤマガミはコンセプチュアルな作品制作を得意とし、今までにもフォトペインティングやコラージュのような技法を経て、発表を続けてきた。ここに来て作家としての力量と作品の内容が高度にマッチするようになってきたと捉えるべきか。あるいは、作家としてのスタンスを明確に打ち出すことに成功したと言うべきか。いずれにせよ、ヤマガミは現代美術の若手の中でも極めて「現代的」な表現者となりつつある。
  では、ヤマガミの本質がテクノロジーやミクストメディアに有る、と断言できるかと言えば、決してそうでは無い。彼自身はクラシックアートの大ファンでもあり、言わば古典から現代アートまで、美的探究心をもって愛好する人間であるのである。このことは、ヤマガミを単なる技術者的な分類に入れるのを躊躇させる。技術、テクノロジーは時代性を反映し、それを扱う作家のイメージを先鋭的なものとして作りがちだが、むしろヤマガミが表現しようとするのは「現代アート」ではなく「現在進行形のアート」なのであろう。両者の違いは意外と深い。テキスト無しでは一般の観客に伝えることのできないコンセプト表現よりも、今現在の道具、技術を駆使して表現を遂行しようとするものは比較的容易に受け止められるであろう。ヤマガミの持つ美意識とは決して前衛的なものでは無く、むしろ古来からの様式美であるとも感じる。フレームの存在、画面構成はどれをとっても確固たる信念をもって打ち出され、細部に至るまで神経が行き届いている。また、いわゆる「遠近法」による消失点が中心に存在することにより、(今となっては)新鮮なまでの安定感が画面に生まれている。古典的な絵画技法と、プロジェクターやビデオといった近代手法が結びついた結果、それは不思議と自然に我々の目に入ってくる。
  彼が描こうとするモチーフもまた、「現在進行形」のもの達ばかりである。決して「斬新な」あるいは「誰も見た事の無い」ものではなく、この時代に生きている我々の誰もが普段から目にしているもの。例えばマクドナルドのハンバーガーであったり、コンビニの陳列棚に並ぶドリンクであったり、排気ガスと雑多な人通りの街の風景であったりする。我々はそれらに対し、あまりにも当然なものとして気にするどころか大抵は意識の中に留めようともしない。しかしそこには確かに美しいものが存在する。人の呼吸、ざわめき、静物、動作。古来から描かれてきたモチーフはそのまま、現在にも存在する。ただ、リンゴの絵は描くのにハンバーガーを描こうとはしなかっただけである。また、「風景画」を描くとする。今この時代に生きている我々にとって、ヤマガミの描く風景こそが真の風景画では無いのか。どこか見知らぬ秘境や森の奥深く、仙人の住むような景色より、圧倒的にリアリティーと説得力と感情を伝えられるのは、この雑多で猥雑で喜怒哀楽の漂う景色なのでは無いのか!
  今回、ヤマガミは絵画を離れ映像とテキストを用いての発表を行う。特に、テキストの扱いは未だ試行錯誤の段階である。絵を描くという行為をしない分、不安な気持ちも募るのだという。しかし、彼の細部に至るまでの追究は、必ずや我々を再び唸らす事であろう。