neutron Gallery - 高島 輝実 展 - 
2003/10/8/18Mon - 31Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

物質とイメージが変容し不完全な状態に留まり、一つの作品の中で交錯する。確かな視点と実験的なプロセスを感じさせる初個展。
私は作品の中で何かが変わる様をみせているわけではなく、ただ素材をそのように並べているだけです。その間は見る人の想像でもって繋がっています。そこにある現実は何も変質していない、何も起きていませんが、見る人が提示された以上のものをそこに見ようとします。その場にある現実と、現実を埋める想像の間を行き交うことで初めて数字が変質し、水になり、水がリボンとなって水たまりになる。

comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

  そこに在るものをキャンバスに描く。それが「絵を描く」出発点だとするならば、目で(心で)見てそれを描写するまでのプロセスこそが作家としてのオリジナリティーであり、アイデンティティーであり、「作品」というゴールへの到達方法でもある。そしてその手段とプロセスは、必ずしも一つとは言えない。作家によっては試行錯誤を常とし、一つ所に留まらず、スタートとゴールの間を様々な方法論で行き来する。高島はそんな作家なのであろう。

  ものを「見る(認識する)」時、我々がイメージする映像としての場面は視覚的情報の固まりに過ぎない。生物としての人間には他に聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そしてさらには「第六感」と言われるインスピレーションがある(はずである)。インスピレーションは突発的なものとは限らない。むしろ、常日頃の問題意識と向上心によって齎されることが多いだろう。何も考えずに漫然としていても、天から何も降って来たりはしない。要は何を考え、何を問題とし、何を描写しようとするかの意識の問題である。高島はものを「見る(認識する)」時点における立ち位置が素晴らしく的を得ている。そしてそこから得た情報を再現する手段も多岐に渡り、一見しただけでは統一性があまり感じられないが、結果(作品)を生み出す過程にこそ、彼女の本質が隠されている。

  五感と第六感による様々な情報の集約の結果だとしても、やはり平面としての作品である限り「視覚」に頼らざるを得ない。もちろん、それが「絵を描く」ことの一番の問題であるのかもしれないが。しかしたとえそれが窮屈な範囲だったとしても高島は一画面に自在に見た物の痕跡を残す。油彩、アクリル、PVC、ラッカー、シリコン、そしてリボンに至るまで、その素材と画材の数も、使用法も多い。共通点と言うよりも、ある種の潔さと卓越した画面構成によって高島の作品は常に爽やかな異彩を放つ。先述の通り、その時その時で彼女の作品をそれと知るには、その「スタートからゴールまで」の過程、すなわち「認識から描写まで」のプロセスを想像し、各自の解釈を加えることによって成り立つ。

  我々がものを「見る」あるいは「認識する」時、それは各器官からの情報が電気信号となってシナプスを伝わり、脳に伝達され、脳内で信号がイメージに変わる。その過程において例えば複数の伝達方法が混在したり、その時間がずれてみたり、不具合が生じたりしたら、果たしてどうなるだろう。両目で見ている世界と片目で見る世界は違う。色彩も実は「色弱異常」などのハンディを持つ人といわゆる正常な人とでは違う。犬は色を識別できない。また、アフリカの大地に住む逞しい人種と都会に住むひ弱な我々は根本的に視力が違う。「見る」「認識する」とは何と不公平で偏った作業なのであろう。「そこに在る」事象を認識し描写するとは、かくしてこのような奇跡的な条件を様々に(人それぞれに)経由して行われる作業であると言える。そこで高島は、そのプロセスを結果として残すべき作品(平面)に顕わすとも言える。近作であり今回の展示にも登場するリボン作品をみて、「デジタル」や「信号」をイメージするのは容易いかも知れないが、それだけが彼女の本質では無い。あくまで現在進行形のプロセスなのである。変容し、交錯し、進行する平面。彼女の脳に伝わる信号は我々ひとりひとりのそれと微妙に違うだろう。我々ひとりひとり、皆そうであると同じように。だが大きな違い等在るはずも無い。だからこそ我々は高島の作品を認識し、何かを感じ取ることができるのだから。