福井栄一コラム 「アートおもしろ草紙」 2005
上方文化評論家 / 福井栄一


アートおもしろ草紙(2005年5月)   「 寺院はケバかった? 」

 奈良の古刹の伽藍が台風で倒壊。再建が焦眉の急となった。「これぞ、またとない 好機。せっかく再建するのだから、創建当時のままの姿に復元すべし」と研究者チー ムが意気込み、綿密な歴史考証に基づいた復元予想図を作成した。ところが、新聞発 表と同時に、檀家のみならず全国から非難の声が殺到した。なにせ描かれていたのは、 ケバケバしい極彩色の堂宇だったから。
 確かに、「冒涜だ」「お寺らしくない」という批判はもっともらしいが、歩?) は研究者チームにある。当時のお寺は、総じてケバかった。「青丹よし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく いま盛りなり」の古歌をひくまでもなく、寺院の伽藍は満 艦飾だったろう。
 いま我々が目にしている寺院の建物は、幾星霜を経て表面の彩色が剥げ落ち、柱や 壁が風雨で傷んだ状態なのだ。この「なれの果て」の姿に「わび」「さび」の美を見 いだしたのは、ずっと後世の人々の智恵(方便?)である。学究的にか審美的にか。 復元作業に伴う問題は技術ではなく、その哲学にある。





アートおもしろ草紙(2005年4月)   「 心眼の曖昧さ 」

  デパートの即売会に出品されたふたつの壺。大きい方が10万円、小さい方が20万円。
「同じ材料、同じ図柄で、どうして小さい方が高いんだ?」
と首をかしげる男Aに向かって、美術通を自任する友人Bが講釈を垂れる。
B : 「ハハハ。キミは素人だから、そう思うのも無理ないさ。よく見比べてご覧 よ。確かに、形も図柄もそっくりで、大きさだけが違うように見えるけど、じっと見ると、小さい壺の方が品格で勝?いる。だから値段も張るの さ。」
A : 「どれどれ、あらためて見直してみよう。おお、そう言われてみると、小さい壺の方がどことなく威厳があるような・・・。」
B : 「だろ?それを見抜くのが美術品鑑賞の醍醐味なのさ。」頷きあうふたりの間を縫って、デパートの店員が壺に近づく。「お客様、大変申し訳ございません。値札 をつけまちがって居りまして・・ ・」
というと、2枚の値札を入れ替えた。





アートおもしろ草紙(2005年3月)   「 なぜ化けて出ないのか? 」

無実の罪で太宰府に流された菅原道真は、讒言の主・藤原時平一族に祟り、雷撃で 御所を灼いた。讃岐へ流された崇徳院は、都に大火をもたらし、生きながら天狗へ転 生して、自らの血糊で朝廷への呪詛を綴った。平将門は斬首されたが、その首は虚空 に舞い上がり、遠くへ飛び去ったという。怨恨、憎悪、悲嘆・・・・・いずれの場合 も、彼らの凄まじい「念」が事を起こしている。あさましいと嗤う前に、その想いの 深さ、強さに素直に驚嘆すべきだ。
 翻って、芸術家の場合はどうか。
 シューベルトが『未完成交響曲』を完成させるべく、墓地から抜け出てきたという 話は聞かない。ガウディの幽霊が夜な夜な現れて、いまだ未完のサクラダ・ファミリ ア大聖堂のレンガを積む噂もない。『新古今和歌集』の撰に洩れた幾百幾千の歌人た ちの亡霊が、撰者・藤原定家の末裔に祟ったことも無かっただろう。何故だろうか。 業が深い人種のように見えて、意外にあきらめが早いのか。左甚五郎よ、いい加減、 忘れた傘を取りに来い。






アートおもしろ草紙(2005年2月)   「 女王様のご機嫌 」

 ピアノは、しばしば楽器の女王と呼ばれる。たった一台で、フル・オーケストラを しのぐ音色・音域を誇るからだ。
 だが、パワフルな女王なだけに、いったんご機嫌を損ねると、そこらの僭主よりも よっぽど始末が悪い。
 ピアノの練習の音がうるさいからと隣人を殺害した、いわゆるピアノ殺人は記憶に 新しいし、皮肉屋のA・ビアスは、代表作『悪魔の辞典』で、かの楽器をこう定義している。
「ピアノ : しつこい来客を制圧する客間の 道具。鍵盤を押し下げ、あわせて、聴く者の意気をも消沈 させながら操作される。」
 構造上、鍵盤に触れさえすれば音が出るので、「猫踏んじゃった」ではないが、猫 にでも一応、ピアノは弾ける。その意味では、「音が出せたら、すでに相当な腕前」 という、トランペットのような楽器に比べて、ピアノは万人に開かれていると言え る。誰にでも弾けるが、うまく弾くことは難しい。女王様は、禅の公案を解くような 演奏をお望みなのだ。







アートおもしろ草紙(2005年1月)   「 芸術家の自律 」

「不景気を理由に国や地方自治体が文化予算を削るのはけしからん」という主張を よく耳にする。確かに削減自体はけしからん話だが、貴重な予算の使い道もまた一個 の問題である。結論から言うと、国や地方自治体が芸術家に直接、カネを渡して支援 するのはよろしくない。世の東西を問わず、芸術家とは総じて貧乏な人種だ。日々の 支払いに汲々としながら創作活動を続ける者がほとんどだろう。その全員に生活費を 支給していたら、予算がいくらあっても足りない?済原理に扼殺されずにどうにか 生き残り、しかも傑作を生み出すのが、芸術家の真の実力。芸術家の自律と自助が、 実に厳しい次元で問われる。では、カネはどこに使うか。芸術と社会のインターフェ イス整備に使うのが至当だろう。傑作を生み出しても社会への売り込み方を知らない 芸術家、美に飢えているのに芸術世界へアクセス不能な多くの人々。両者をうまく マッチングさせる「仕掛け」(個人や団体? 催事やスキーム?)の充実に税金を使 うべきだ。  という訳で、上方文化評論家がもう少し忙しくなりますように・・・・・。