neutron Gallery - 西田 隆彦 展 『 夢をくらったモノたちへ 』-
2009/6/16 Tue - 21 Sun gallery neutron kyoto
※通常より短い一週間の会期となります。

西田 隆彦 NISHIDA TAKAHIKO

頭の中に広がる、イメージの広大な森。その中に浮かんでは消 える、現実とファンタジーの境界に住む生き物達。
どこかノスタルジックでメルヘンが漂いつつも、イメージの連 なりと重なりに確固たる手触りはなく、見ているものと見えていないもの、それぞれのせめぎ合いが画面で新たなイメージを生む。
アクリルによる淡い色調と輪郭線によるアニメーション的な描 画に、団塊ジュニアの世代に潜む「自然」が描かれる!




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ニュートロン代表 石橋圭吾

 2005年に京都文化博物館で開催された「日本画ジャック」という自主グループ展を、一つの時代の象徴的な出来事と言うのは少し大げさだろうか。事実、その首謀者である三瀬夏之介と山本太郎は今や、押しも押されぬ若手スター作家の仲間入りを遂げたが、この当時はまだ知る人ぞ知る、ブレイク寸前と言った状態であった。「日本画」という、良くも悪くも旧来の日本美術を定義してきたジャンルであり技法であり、あるいは便宜上のフレーズであった言葉との格闘を繰り広げてきた三瀬夏之介にとって、自身の絵画における戦いに留まらず、京都・奈良を中心とする関西の盟友達を引き連れての企画となった今展において、結果的に「日本画」たるものに対する考察は置き去りにされてしまった感はあるものの、一つのムーブメントとして、日本画に対するカウンターカルチャーの盛り上がりは充分に示す事ができた。彼らにあえて共通点を探すとすれば、それは「日本画」という括りではなく、世代だろう。およそ(当時)30代前半を軸とし、互いに影響を及ぼし合う仲であったグループと言える。その中に、西田隆彦も居た。

 しかし、もうお気づきだと思うが、西田隆彦という作家が日本画の作家であるとは言っていないし、おそらくは違うだろう。技法はアクリルペイントが主であるし、屏風や襖絵を描く訳でもない。質感は水彩画風で、イメージの淡い重なりやモチーフの連結、線描と色彩のバランスによって一様ではない印象と、どこかノスタルジックでメルヘンチックなストーリーを感じさせる作家である。あえて彼が「日本画ジャック」に参加した理由のうち、作風におけるものを探すとすれば、それは「日本的な風景の捉え方をしている」ことと、「現代日本人としての描き方をしている」という二点において、合点がいくのである。

 即ちその一つ「日本的な風景の捉え方をしている」こととは、日本の山紫水明、森羅万象という事象への向かい方が、古来からの土着信仰や伝話伝承の時代にみられるように、自然という不定形で限定出来ない「ものごと」に対し、擬人化や擬態化というアプローチで解釈のきっかけを生み出し、さらにその対象への畏敬や畏怖といった感覚を強調する。まさに、西洋が自然を征服することを目指した文化的系脈だとすれば、東洋、特に日本的思想の一つの象徴とも言える「万物に神が宿る」という概念を、彼は周到に学んだというよりも、感覚的にずっと内面で保持し続けてきたのだろう。スタジオジブリのアニメーションにもそれらの思考が頻繁に見られるが、現代日本人がそれを積極的に支持しているということは、やはり我々のDNA に今だ「日本的な風景の捉え方」が生きていると言う事か。

 そしてもう一つの「現代日本人としての描き方をしている」点について言えば、西田作品はアクリルの抽象的な色彩描写と、輪郭線によるモチーフの存在のさせ方に、絵画としての重厚感よりも、漫画やアニメーションの描画に見られるような、あくまで平面的でありながらもイメージを重ねて・連結することによる多層な印象を持つ事が出来る。さらに少女や自然の化身としての動物たち(に見えるもの)の描写には、時に少年漫画のようなナイーブな面を見せつつ、やはり現代日本人の共有する時代感覚というものが、ここでも垣間みれるのである。

 それにしても、実家の自室の壁紙の模様から影響を受けた、とは随分ユニークな事を言う。大自然に囲まれて育った訳でも、田舎暮らしを指向している訳でもない、ごく普通の団塊ジュニアの世代の作家である。環境が人格形成に影響を与えるとは言っても、まさか壁紙とは(笑)。いや、まさにその壁に描かれていた模様であり、線描であり、単調なイメージの連続こそが、彼のその後の行き先を暗示していたのかも知れない。今までも、そしてこれからも目の奥に浮かんでは消える「たしかにここにあった」ものたちを描いていくのだろう。

 その実力は決して時代に置き去りにされるものではない。むしろ、彼の様なマイペースで実直な制作スタンスは、今から本当に評価をされて行くものと思われる。まずはその始まりとしての京都展から、じっくりと見定めていきたいものだ。