neutron Gallery - 福島 菜菜 展 『庄太郎⇔鼻行類 と浮遊生物』 -
2009/6/23 Tue - 7/5 Sun gallery neutron Kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家  福島 菜菜 FUKUSHIMA NANA

夏目漱石の小説「夢十夜」にインスピレーションを受け、その考察から独自のイメージを広げ、個展を重ねること既に4回。今回はその試みの集大成でもあ り、新たなチャンレジでもある。
油画による作風から離れ、ドローイングを基本としながら、「鼻行類」などユーモアたっぷりの生物達が活き活きと登場し、「言葉」から生まれる豊かな想像力の発露を見せる!




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ニュートロン代表 石橋圭吾

 美術を志す者が、何からインスピレーションを受けるかは様々である。音楽や舞台のような芸術から多くの感性を刺激されるのは珍しくないが、例えば都会の雑踏やゴミから、あるいは幼少の頃の記憶から、絵を描かずにはいられない衝動を覚える人もいる。そういった類型の中に、当然のことながら文学(あるいは読書という行為)からの影響も含まれる。しかしその場合、おそらくは本来想像されるべき光景というのは、その本の筋に沿ったものであり、著者が言葉によって構築しようとする世界の在り様であるはずだろう。

 だがここに一つの例外がある。福島菜菜は上述のような前提を軽く飛び越え、傍から見ればもはや引用の意味を重要と感じないほどオリジナリティー溢れる絵画を生み出すのだが、彼女は一貫して愛して止まない夏目漱石の小説「夢十夜」からの影響を訴え続け、そしてその名を冠した個展を開催し続けてきた。「夢十夜」は筆者が夢の中で体験する摩訶不思議な話を、十の短編によって綴ったものである。福島は2003年にニュートロンでの自身初個展を開催するにあたり、それまでの(大学時代を含む)油彩やアクリル、岩絵の具など様々な制作の代表的な作品を発表するという出来事と、同時に自身の制作の本質的な動機(=それは夏目漱石を代表とする、好きな文学における「言葉」から生まれる無限のイメージの広がり)を見定め、直接的にその両者を結びつけ・関わり合わせることを目的としたからこそ、このシリーズがスタートしたと言える。今回が第5回目の発表となるが、これからも「夢十夜」が制作の動機となることは間違いないだろう。

 シリーズとはいえ、その時々における制作ぶりは変化を見せ続ける。初回(2003年 / neutron 5F)はそれまでの大学時代以降の重厚感と軽妙さが同居する代表作と、ユーモラスなポストカードなど盛りだくさんではあったが、夏目漱石の「言葉」と関係を結ぶには多少強引なところも感じられた。所詮、「イメージなのだから」と言ってしまえばそれまでだが、続く2回目(2004年 / neutron 5F)では作家自身がより深く小説に入り込み、一つ一つの言葉、文章を拾い上げ、ある意味では忠実に、またある意味では全く自由に発想を広げたため、結果的に前回とは大きく印象の異なる出来映えとなった。画面にはまるで行間の様に広く「間」が生まれ、色数やキャラクターの登場回数も減らされた一方、効果的に福島ならではの遊びやデザイン性の高い描写が施され、いわゆる日本画における伝統的な美意識も働いていた様である。続く2005年、烏丸三条に移転したgallery neutronでの第3回発表においては、よりストイックに、個々の画面のデザイン性と現代的なフラットな質感を際立たせ、従来のようにスポットライト(白熱灯)で演出する手法から、現代美術を象徴する真っ白な蛍光灯による空間に作品を晒したのも、印象的であった。

 しかし2007年、同じ京都の立体ギャラリー射手座における4回目の発表では、今度はシリーズの中で最もストーリーに忠実な場面描写に針を振り、挿画のような人物画と、従来の線描を基本とする装飾的な画面構成を交え、展示も筋道に沿って行われた事により、おそらくは「夏目漱石ファンによる『夢十夜』の再現」という見られ方もあったであろう。

 紆余曲折を経て、作家はまたニュートロンの壁面に挑む。もはや福島にとっても、夏目漱石「夢十夜」はバイブルでありながら乗り越えなければならない永遠の壁でもあるとすれば、ここに現出するのは彼女の前に広がる=立ちはだかる大きな壁である。今回の出展作は紙にペンを走らせることによって生まれたドローイングの連結であり、それは言葉を触媒としながらも、言語を超えたイメージの広がりである。鮮やかな着色も、鼻行類(手足が退化し、残された鼻で歩く哺乳類。核実験によって滅んだとされ、学術書なども多数存在する)や数多の浮遊生物も、装飾も美術もイラストレーションも全て紙の上で共存する。そしてなお、イメージの壁画は貪欲な広がりを予感させることだろう。なぜなら文豪・夏目漱石の推敲による美しい言葉達は、福島菜菜の解釈によって生まれ変わり、やがて霧散し、その一片のかけらも全て想像という生き物に食べ尽くされてしまうであろうから。