neutron Gallery - 吉田憲司 展 - 
2005/4/12Tue - 17Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

手が、ペン先が何かに乗り移られたかのように、無意識に動く。
線は解放され、自由に動き、作家の心の中を写し出すように描かれる。
緊張感と浮遊感が同居する画面にはただ線が存在するのみ。
それを見る時に私たちが感じるものとは・・・?





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  私が書くこの文章を読む前に、まず吉田憲司自身が書いたステートメントを、ぜひご一読願いたい。そこに書かれている事に「ほんまかいな」と突っ込むのも良し、「そうなんだあ」と感心するも良しなのだが、彼が作品と同様、「人を喰って」いることは間違い無くご理解頂けるだろう。どこまでが真意で、どこからがフェイクなのか。希代のトリック・スターたる由縁は、まさに明解な様でちっとも明解でない、彼の作品及び彼自身に表れる。ともかく、私たちは彼がいちいち期待を裏切って残すペンの痕跡を頼りに、大宇宙と小宇宙だの意識と無意識だのをぼんやりと考えつつも、ただじーっと目を凝らして作家の意図を探るだろう。しかし画面上では、もはや全てが完結している。(そこが凄い所なのだが)吉田憲司の作品は全て完成形なのである。一般に言うドローイングや下書きといった行為は存在しない。彼がパネルを横たえてペンを握った以上、そこからコックリさんのような過程を経て?生まれる線やフォルムは全て、二度と再現されない唯一の存在となる。おそらく人目に晒さない作品も多々有るのだろうが、彼が「失敗」あるいは「見せない」と判断したそれらを見ても、私たちは「見せる」とされた作品との違いを判別できるだろうか?矛盾している様だが、彼は確かに無意識で線を引いていながら、一方で自分の気になる構図や線の在り方を考えている。もう少し彼の味方をして言えば、おそらく彼自身のペンを握る手は勝手に(何かに憑かれた様に)動こうとも、彼自身の思考は極めて客観的にそれを観察している、とでも言えようか。自分の事なのに他人事。あるいはそれはマラソンランナーにおけるランナーズハイのごとく、その道を極めた者だけが味わえる極地なのか・・・。まあそれはさておき、「ミクロとマクロ」「意識と無意識」「点と線」など、今までにも多くの作家が課題としてきたテーマに斜からひゅるひゅると切り込んでいるのは間違い無い。
  2002〜2003年にかけて、吉田が大阪芸術大学大学院に在籍中にもかかわらず精力的な発表を重ねた時、人々が持った印象は硬質でメカニカルなパースペクティブでありシルエットであった。テクノあるいはCGとの関係を盛んに問われてうんざりしている頃、実は吉田の興味はとっくに次の方向へ向き、すなわち有機的なフォルム、開放された線あるいはその結果の点へと続く。ニュートロンで昨年開催した個展はまさにこの時期で、彼を知る多くの観客を見事に裏切ってみせた。さらにそこからしばらくのブランクを経て、今回見せるのは・・・。それは会場で感じて頂きたい。しかし一つ言えるのは、彼も正直に告白している通り、再び線は閉じ、しかも画面を被い尽くさんばかりの筆量が戻ってきた。これはかなり以前に圧倒的な構成力で画面の中に線を大量に引いていた頃に通じる。すると、再び「色」についても考察されていくのだろうか。吉田憲司の謎を読み解く鍵は、まさに吉田憲司の残して来た全ての作品にこそ有りそうだ