neutron Gallery - 小西 浩之 展 - 
2005/2/14Mon - 20Sun 京都新京極 neutron 5F gallery

日々「顔」のドローイングを連作として制作する中で、独自のユニークな視点とダイナミックな構図を発見、平面に展開する。日本の古典的な要素を取り入れつつ、人間の「顔」から発せられるエネルギーや  動的な印象をカラフルに、ポップに編み出す。


 
前回は『日本の神』ということで、十二天、風神・雷神を私なりに感じ取ったエネルギーなどが私の目を通り、 脳に達し直接手に伝わり表現してきた。今回も『日本の神』を私なりに表現したい。 今まで同様、見た物が脳に到達しそこで感じた感情を描く、とういう自分のフォームを大切にしつつ 脳で考えるという事も取り入れていきたい。 今回は菩薩を中心に表現していきたい。菩薩には多くの種類がある。 人を救い、守る事と同時にまだ修行中であり、また如来とは違い身にまとっているものは派手である。 そういう事が今私に何か魅力があり引き付けられている。 そこからどのように自分を出していけるか挑戦していきたいと考えている。


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 またしても「顔」である。
最近、人の顔を描く、あるいはそこから着想を得て制作する作家が多い様に思う。 なぜなのだろう?
思うに、(当たり前の事だが)人々の関心が「顔」に集まっているからであろう。 時代の顔というものが有る。顔と一口に言っても、骨格、輪郭、化粧はもとより 各パーツの存在感、表情、流行りには移り変わりが有る。 近年では整形も社会的に広く認められる様になり、今や「美形」は作り出すものになりつつある。とすると、私達のように美的なものを追究する人間にとって、もはや「顔」とは 生まれながらの美というよりも、完全に人為的に形成される価値観として捉えざるを得ない。ではいつの時代にも美しい「顔」を追い掛けることの意味とは? これは即ち、異性を惹き付ける目的と、自己愛の達成の二つだと言い切れるのではないか。「顔」をどのように捉えて表現するかは千差万別だとしても、「顔」に執着する以上、 人間という生き物において最も着眼すべきパーツだと考えていることは共通している。小西浩之も例外では無い。しかし、その描き方はいささか大胆で、ユニークである。
 彼はポストカード大の手の込んだドローイングを一枚一枚描きながら、 その過程で発見される可能性を丹念に推考しパネル作品に発揮する。 両者の関係は極めて近いが、ポストカード作品を日常的なスケッチの延長とするならば、 パネル(平面)作品はもっとコンセプチュアルなものに成る。 例えば2004年の初個展で見せた梵字や「日本の神」というモチーフも、 発表を前提に練られたコンセプトであり、今回も「菩薩」というテーマに反映される。それらは全て「時代の顔」を消化しつつ、さらに大胆にデフォルメされる。彼が「顔」から感じとっているものはおそらく動的なエネルギー体としての表情であり、 見えざる霊的なオーラであり、あるいは自分自身との接点であるかも知れない。 人の好む顔とは、どこかその人に通じる雰囲気が有ると言う。だとすれば、彼が描こうとする「顔」も、モデルが誰であれ、そこに自分を映し合わせ、 自己が本能的に求める自由で美しい顔を追究しているのだとも言える。 もう一つ、見逃せないのが彼のパネル作品における日本の古典美術からの影響である。そして「顔」は見事にアニメーション的であり、西洋的である。 それらは当たり前の様に融合し、自由度を増して存在している。 夥しい量の「顔」を毎日目にしている今、彼の確信的な仕業は見事に時代の空気を反映し、 そこに「顔」の一つの真実すら感じさせるのだ。