neutron Gallery - 表恒匡 展 『 眼眩在す / ブラインド・タッチ 』 - 
2004/11/16Tue - 21Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

黒塗りの絵画に映り込む風景ははたして実像なのか、虚像なのか・・・。 絵画や美術の歴史を辿り、さらに自らの目をもって疑い、考察する気鋭の作家。 新しい試みとしてホワイト・アウトする目くらまし状態を考案。 彼の視覚への挑戦の旅路は、果てしなく続く。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  昨年同時期の初個展『black painting』にて、美術史における永遠のテーマであり続ける「視覚の懐疑性」をクローズアップし、黒塗りの絵画とそれに映り込む多様な景色を提示して非凡さを見せつけた表。ちょうど1年間、彼の問題意識は「black painting」をしっかりと継続・発展させつつもより新しい問題提起を模索してきた。それが今回登場する『眼眩在す(めくらます) / ブラインド・タッチ』と題された作品である。
  彼はそもそも大学では洋画を専攻している。今さら言う間でも無いが洋画を志す者の問題意識として「絵画」という枠を壊す、破る、疑う・・・といった否定的な態度は伝統的といってもいいくらいに存在しうる。もちろん、疑いも無く絵画を描く者もまた然り。つまりは洋画という括りの中には全く正反対の指向を持つ者達が常に混在しているという、不思議な現象が見受けられる。どちらが正しい、などとここで言えるはずもなく、またそんな気もさらさら無いのだが、疑ってかかった以上、もはや後戻りはできないのは事実である。自分の目の前のキャンバスを信じて好きな様に絵を描いている方が、はるかに幸せであり楽しい事かも知れない。一方で一度何かに「気付いて」あるいは「信じられなくなって」しまった者が、それを見てみぬふりをして絵を描いたとしたら、果たしてそれは純粋な表現と成りうるだろうか。決してそうはならないだろう。肯定・否定どちらにしても、自己に芽生えた真理の芽を自ら踏みつぶしてしまったら、そこには何の草花も咲かないだろうから。
  では、表が気付いてしまったこととは一体何なのだろう?今の時点で言えるとすればそれは、「見る / 見える」ことへの懐疑と、存在の不明確さへの挑戦だろうか。彼は制作において絵画的技法と写真手法を自在に用いる。いわゆる「フォトペインティング」ではなく、絵画で表したものを写真で写してその違和感を提示したり、先述の「black painting」のように絵画としても存在する作品と、それに映り込む事象を写真で捉えた作品群などは、切っても切り離せない関係にある。さらには近作の「black painting」では黒塗りの画面に意図的な模様が(マチエールとして)描かれる。すると、当然映り込む事象にもその模様が反映され、明らかに「何かに映っている」という事を我々は簡単に認識する。しかしそれは、映し込むために描かれた模様であるため、黒塗りのキャンバスだけでは「絵画」として存在していないのでは、という疑問も同時に生じさせる。もちろんこれに答えはまだ出ない。「black painting」はそうやって様々な試みの末に、表の一基軸として育っていくのであろう。そしてそこから生み出される実験精神はさらに彼を映像や立体など異次元の表現の欲求にもかき立てる。
  今回の発表で行われることは、ある意味で「black painting」とは逆の性質を備えつつ、本質では通じているのではないかと思う。「black painting」が文字どおりブラック・アウトされた絵画に映り込む現象の考察だとすれば、今作は光によって突然もたらされる目くらましの効果である。雪山で猛吹雪などにより視覚・聴覚・平衡感覚全てを狂わされる現象を「ホワイト・アウト」と言うが、まさにそれに近いだろう。我々は普段、五感の中でも圧倒的に視覚に頼っているため、それが急に奪われると体全体の機能が麻痺したかのような錯覚に陥るだろう。暗闇では目を凝らすことが出来ても、ホワイト・アウトの状態では視覚はゼロのままである。しかし、そこには暗闇と同じく、相変わらずの状態で物事は存在しているはずだ。畏怖し、狼狽える人間と対照的に静かにじっとしている事象。我々が見ているものはそれらの何なのか。ある一定の条件(光、彩度など)が整わなければ認識できない視覚という頼り無い感覚に、しかしながらすがるしか無い人間。もちろん、美術と言えども例外ではない。いや、むしろ美術こそ、この先もずっと視覚を疑っていかなければ、ならないだろう。