neutron Gallery - 小賀野有 展 『 lukewarmness 』 - 
2004/11/8Mon - 14Sun 京都新京極 neutron 5F gallery

写真というメディアを利用しつつ自らの存在意義や人間としての肉体、精神を思考 する。 「依存」なくしては生きられないのか。ストイックでパーソナルな探求が胸に響く。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

常々感じていることなのだが、(あえてジェンダーの論議を外して言うのだが)
男性と女性とでは根本的に思考回路とその末路にあたる表現が異なる印象が強い。
特に10代から20代前半の女性と男性では。
その時期、特に女性においては劇的な肉体的変化が起こり、否応無しに性を意識せざるを得なくなる一方、精神においては少なからず未熟であるため、行動や思想に極端なものが見られる傾向がある。
自分の意思とは関係なく生物学的に「女」であることを知るに至り、彼女達の思いは様々に分岐し現出するのだが、果たしてそれは長続きするものも少ない。
例えば昨今話題の「ゴシック・ロリータ」(いわゆるゴスロリ)は、昔から存在していた耽美的な少女主義へのリスペクトと現代の性消費社会から受けるプレッシャーをコスプレによって増長するものであるのだが、そこには「大人の女」という見られ方、社会からの要求から身を護ろうとする意識と、日常から乖離した服装や設定に身を置く事によって逃避する願望が有る。
また、低年齢化する性の氾濫においては、自らの肉体の価値を早くから認識し、既に幼くして肉体を「商品」とし、どれだけ肌を曝そうとも、精神は誰にも届かない程の鎧で覆っているという状況が有るのだと言う。
いや、何もそのような「武装」をしなければならないのは彼女達だけではない。
私達、現代に生きる者は一体どれだけの精神的苦痛やストレス、余分な情報や脂肪を望まない内に受け取っているのだろう?
いわゆる「大人」であるからといって、この状況で自らの精神と肉体のバランスを保ち己の存在を確実に認識し、疑いも無く生活を送ることなど、できようか?

話を戻すが、女性は自分の体を実は冷静に、客観的に扱うことができる。
男性が「あの女優がヌードに!?」等と騒いだところで当の本人にとっては単なるビジネスであり、「綺麗なうちに撮っておきたかった」で済ませられる程度の事。
子供を産むことができるのは女性の特権であり、だからこそ「生きる」「死ぬ」に敏感で、あながち思考と肉体が直結している、と言われる事も間違いではないだろう。
ここに登場する小賀野有香にとっても肉体は己の思考と密接に関係したものである。
しかし一方で、顔や身体、経験や記憶を材料にして客観視する事もできる。
シルバーアロワナに扮した写真を「奇妙な」パフォーマンスと捉えて済ますのではなく、実際に私達だってアロワナになってみれば何かを感じることが出来るだろう。
でもそうしないのは、私達には単に「変身」するだけの切迫した事情が無いからだ。
女性の感性だけを論じるのではなく、もっと深い洞察を試みる必要が有るはずだ。
我々男性は(特に現代美術といわれるフィールドにおいて)、脳みそから生まれた理論と言う名の屁理屈に頼り過ぎてはいないだろうか?
そんな事を少し考えさせられる、ドキリとする存在の一人である。