neutron Gallery - 小曽根香織 展 - 
2004/4/13Tue - 18Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

5階ギャラリーでの個展からさらに展開し、今回は「MASK」シリーズを 中心に見せる。「美」と「醜」の共存する曖昧で根源的な状態をありのまま見せるこ とによって、美の価値観が揺らいでゆく。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 昨年の9月に、ニュートロンの5階ギャラリーで「チャンネルあわせ」という個展を開催したばかりではあるが、私と作家の意向が合った結果、この時期に改めて地下ギャラリーでの企画展として内容も新しく開催する。そもそも小曽根は作家として非常にバイタリティー溢れ、自らの信じる「美」を制作として表そうとする真摯でひたむきな姿勢が強く感じられるため、短期間での新展開もそれほど新機軸を打ち出すというものではなく、一歩前に進む、というものになろう。
  小曽根の信じる「美」とは。自身のステートメントにも明快に書かれてはいるのだが、すなわちそれは物事に内在する「表」と「裏」の相反する要素が同時に混在したまま表出している状態、とでも言おうか。あるいは「表」と「裏」という表現をそのまま「綺麗なもの」と「醜いもの」に置き換えてみることもできるかもしれない。しかしながら「綺麗」「醜い」は価値観の問題もあるので、一様では無い。ここで取り上げるのは、それら相反する要素が、対極として交わらない状態ではなく、「混在」する、あるいは「同居」する感覚・状態における見方である。少なくとも世に作り出される・生み出されるものは「かわいい」「きれい」「かっこいい」「やぼったい」「けばけばしい」など、ある一つの修辞句に当てはまりがちであり(それが狙いでもあるのだが)、こと美術・芸術品においても一つの価値観の提示=コンセプトとしての「美」というスタイルが一般的である。たとえば、現代美術において「ゴミ」という対象は本来の「汚い」イメージを逆さに作用させることによって哲学的な意識変化を呼び起こし、新しい「美」的な価値観を創造することが成されて来た。今、これらの手法・作品を目にしても、それらが最初に出展された時程の驚きや歓声は上がらないだろう。すなわちそれは時代性、メッセージ性の強い作品であり発表であるため、その時代、あるいは場所・環境によって大きく効果が左右されるのであろう。ひとつ何かを間違って展示すれば、その作品の姿は変わらずとも意味合いは大きくずれてしまう。一方、小曽根の表したいものとは、全くをもってそれら現代美術的な価値操作とは趨を異なる。先述の通り、「美しい」あるいは「汚い」という大前提に達する以前、まだ曖昧で評価が定まらない状態やモチーフに内在する様々な要素(「美しさ」「醜さ」「怖さ」など)をその不確定なまま画面に表出させること。すなわちそれは作家としても一方的な価値観を押し付けるのではなく、獏とした状態、不安定・不確定なものをそのまま見せることによって、見る者に判断を委ねることにも繋がる。だがそれは価値観の放棄ではなく、もっと根源的な「提示」ではないかと思う。
  例えば、小曽根が多用する「蛾」というモチーフ。我々はそれに対して、まず「蝶」との比較を前提にして「グロテスク」であったり「無気味だ」という印象を持っている。では、その印象の出所は、一体どこから来ているのだろう?生物的な教育もある。親から自然と受け継いだ価値観もある。でも何より、蝶のスマートさに対してどこか歪で過剰な形態をもつ「蛾」における不安定さ・無気味さ=「怖い」「近付きたく無い」という言葉に置き換えて済ませてしまっているところはないだろうか?同じ「蛾」でもモスラはヒーローである。植え付けられるイメージ・時代・ファッションによって物の価値観など根底からひっくり返ることすらあるのだ。女性の顔においても、例えば化粧などは時代によって次々と変遷がある。ましてや「美人」という一見絶対的なカテゴリーさえ、その変遷たるや目覚ましいものがある。平安時代の「美人」を、今我々がその目の前で「美しい」と感じられるだろうか?だとすれば、「蝶」と「蛾」の区別もまた実は曖昧である(生物学的な違いはさておき)。現代美術が本当に現代だけの美術で終わらぬよう、真の価値観とは何か、真の(絶対)美とは何か、これを機に考えてみるのもいいのではないかと思う。