neutron Gallery - 吉田憲司 展 - 
2004/2/3Tue - 5Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

ロットリングからボールペンまで、あらゆる「ペン」を駆使して緻密で静ひつな 画面を描き出す気鋭の作家。「線」によって生み出される構図、色彩、イメージは極 めて多様で、常に新たな領域へ踏み出す姿勢はストイックなまでに美しい。


 



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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  吉田憲司は現在、ゼブラのボールペンを使っている。なぜゼブラのボールペンなのかと問えば、それが現在自分の描こうとする絵に一番合うからだと答える。このように吉田は、今までにロットリングやボールペン等を様々に使用し、その時点での表現に一番合う「ペン」を用いて制作を行って来た。「ペン」という一般には安価な道具は絵を描くには不向きなのでは?という第一の疑問は、その作品の完成度と説得力をもって打ち消される。
  彼の作品に興味をもったのは丁度、『超清潔』の頃、DMを見てCG的なパースペクティブを用いたグラフィックとしての平面を想像し、会場に足を運んだことがきっかけだった。そこで私は見事に期待を裏切られる。いや、作品は素晴らしかった。裏切られたのは、私の凡百なイメージと想像していたストーリーとはかけ離れた制作者の姿であった。その時期に彼は、直線をフリーハンドで引き、その線は閉じられ、ロボットのように見えるモチーフをいかにもテクノロジカルなフォルムで描いていた。しかもその線はとてもフリーハンドとは思えないほど迷いなく真直ぐに伸び、収斂し、動き、崩壊する。その様は彼自身が「無意識で」描いているという言葉をとても信じられないほどのイメージを孕んでいた。当然の事ながら私は、いわゆるテクノ系の音楽やグラフィックを愛好するのかと訊ねたところ、彼は「またか」といった感じで多少うんざりした表情を浮かべ、「いや、違います。」「僕はヘッドフォンでデスメタルをガンガンに聴きながら、半ば覚醒した状態で絵を描くんです。」と言った。そしてその場にあったポートフォリオを見て私は再び愕然とした。彼が制作してきたのは、単なるグラフィックとして片付けられるタイプの絵では無く、「線を引く」という単純な動作における究極までの絵画性と表現の追究であった(今でも、これからもおそらくそれは間違いないだろう)。あらゆるペンを試した痕跡は見事に過去の作品に記され、それぞれがその時点で希有な存在感を放ち、作者にひとつのイメージを当てはめようとした私の発想をガラガラと崩壊させていった。彼は単に、その時に描きたいものを描いているにすぎない。でもそれは自己に対する厳しさと表現に対する絶えまない欲求の元に生まれるのだ。
  吉田の絵(線)の変遷は、その時々の吉田の精神状態、テーマ、知識・情報、そして環境やさらには社会的風潮、世界情勢まで、あらゆる要素を含んでの出来事だと言っても過言では無い。現代社会において、作家で無くても情報や様々な影響を受けずには生きていけない。それを自然なものと受け止め、むしろ変わっていく先に目指すべき到達点を見定め、まるで螺旋階段を登るようにスキルアップしていく吉田は、現在進行形の作家の在るべき姿の一様に映る。それは考えてみれば、何も不思議な事ではない。
  彼は一本の線から描き始め、体を手と一緒に動かしながら、まるでチャネリングのように無意識と意識の狭間に居ながら、確信して作品を出現させる。ドローイングといった作業は存在しない。なぜなら、例えその瞬間に手慰みに段ボールに描いたものも、彼にとっては消化されるべき欲求であったがために、それを作品としての形態にできなかった(彼はケント紙を用いたパネルにこだわる)ものとしてしか、見ることができないのである。決して、「下書き」では無いのである。その時の表現の欲求は、その段ボールに描いたおかげで我々の目に触れる機会は永遠に与えられることは無い。
  恐るべし!吉田憲司。彼は、ボールペン一本でミクロもマクロも、精神の深淵も宇宙の法則も描こうとしているのだ。デスメタルの洪水のような騒音(といっては、愛好家に失礼だが)の中、かくも緻密で静謐で、明解な線を引くのは容易では無い様に思われる。しかし、街中の雑踏やノイズと同様、案外それは集中力を高めるための意図的な音の設営にすぎず、ノイズのカーテンの向こうには真っ白な、無限の清潔な空間が広がっているのかも知れない。
  今回の展示もまた、現時点での彼の集大成であり、全てであり、一端でしか無い。