neutron Gallery - 『カメラを用いて切り取った映像から構図とメッセージを強調するためにデジタル処理を経て抽出されたドローイングとしての作品』- 
2003/7/8Tue - 13Sun 京都新京極 neutron gallery

私にとって重要なのは、一枚の画面に収められた構図であり、色であり、線であ り、影であり、光りである。匿名性と普遍性。平たく言えばその2点である。それを 「写真」と呼ばないならば、別の名前が必要である。  今回の個展のタイトルは、そのまま展示内容を顕わす。だから、「カメラを用いて 切り取った映像から構図とメッセージを強調するためにデジタル処理を経て抽出され たドローイングとしての作品」展である。解説としても、これ以上の説明が必要だろ うか?  自分が制作する作品は必然的に、「一瞬」の輝きを放つ「今でこそ」あるいは「今 しか無い」作品を瞬発的に表現するものへと趣を変えた。もうこれは「写真」では無 い。自らの置かれた状況と抱えるモチベーションと総合的で客観的な目線を持つ事を 余儀無くされた今だから生まれてくる作品なのである。私は常に自由でありたい。  私の作品が見せるのは一つの「事実」である。

  

comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 私個人の、「写真家」としての歩みはとっくに止まっている。

 いや、そもそも「写真家」だと思っていたわけでも無い。写真を撮る人間ならおおまかに「商業カメラマン」と「作家性のある写真家」に分けられがちだが、自分はその分類よりもむしろ、「グラフィック」あるいは「デザイン」的な立場から写真を用いてきた。手段としてカメラを使うが、それを見せて「写真展」としたとしても、どうも他とは見せたいものが違う。私にとって重要なのは時間や場所といった情報でも、タレント性の強いプライベート感でも無い。一枚の画面に収められた構図であり、色であり、線であり、影であり、光りである。そのひとつひとつが意味が有り、気に入っている写真はその必然的な純度も高い。匿名性と普遍性。平たく言えばその2点である。それを「写真」と呼ばないならば、別の名前が必要である。しかしながら、未だかつてそのような自分の「見せたいもの」にぴったりの「名前」に出会ったことは無い。なので、仕方なく「写真」という何とも古臭くてつまらないジャンルに自分を停めていたのである。

 しかし、ニュートロンを始めて以来、自分でもびっくりする位にその「枠」を超えていくことができた。以前のように「写真」を撮る時間も激減し、日々の集積としての表現も難しい。写真技術ももはや手遅れ。時代性だけの写真も山程見ているのでうんざり・・・。そう言った状況でなお、自分が制作する作品は必然的に、「一瞬」の輝きを放つ「今でこそ」あるいは「今しか無い」作品を瞬発的に表現するものへと趣を変えた。カメラはデジタルカメラへと持ち替え、もともと手焼きなどしなかったが現像では無くパソコンでの処理、そしてプリントアウトである。いかにも「写真」好きが嫌いそうな工程である。そう、それで結構。もうこれは「写真」では無い。自らの置かれた状況と抱えるモチベーションと総合的で客観的な目線を持つ事を余儀無くされた今だから生まれてくる作品なのである。昨年のニュートロン1周年の時にもそのナイーブでシニカルな一面をお見せしたが、今度はもっと削ぎ落とされている。私は現代アートが好きになった。

 それは退屈ではなく新鮮な概念と金にならない労力を惜しまずに制作する人々の輝き、そして完成した作品のどこか滑稽でシンプルでありのままの状況が好きだ、と言う事ができる。いつまでも「写真」の枠を固持したがる人々の下はとっくに去り、私は常に自由でありた。作家としてよりも、ニュートロンを運営する人間として、自由でありたい。

 多くの作家と観客に自由であって欲しいから。だからこそ、見て損はさせない作品にはする自信はある。ここで失敗したら面目丸つぶれ、かもしれないが、怖がらずに挑戦したいと思う。それがニュートロンであるから。